天台宗について

宗祖・高祖・祖師・開祖

宗祖伝教大師 最澄

私のために仏を作ってはなりません。
私のために経を写してはなりません。
私の志を述べなさい。

伝教大師(でんぎょうだいし)最澄さまが、お亡くなりになる少し前に弟子たちに伝えた言葉です。
それでは大師の志とは一体どのようなものなのでしょうか。
それは、正しい仏教を広め、素晴らしい人材を育て、すべての人が仏さまとなることができる世界を実現するということに違いありません。
大師の志は、今でも受け継がれているのです。

ご誕生とご出家

生源寺 産湯の井戸

伝教大師は天平神護(てんぴょうじんご)二年(七六六)〔一説に神護景雲(じんごけいうん)元年(七六七)〕近江国(おうみのくに)(現在の滋賀県)の坂本にある生源寺(しょうげんじ)のあたりにお生まれになったと伝えられています。お父様の百枝(ももえ)さまはその地域をおさめていた三津首(みつのおびと)という一族の方で、お母様は藤子(とうし)さまと言われています。なかなか後継ぎにめぐまれなかったお二人が比叡山の神に願いを込めてお参りしたところ、ようやく大師を授かることができました。

大師は幼い時、「広野(ひろの)」というお名前でした。広野さまは幼いころからとても優秀で、さまざまな勉学にはげんでいましたが、神仏への信仰の深いご両親の影響で、十三歳(一説十二歳)の時に僧侶となる道を選んだのです。そして、近江国の国分寺(こくぶんじ)に入門し、近江国師(こくし)の行表(ぎょうひょう)法師の弟子となり、「最澄(さいちょう)」という名前をいただきました。

『 伝教大師絵伝』行表法師につき出家する(延暦寺蔵)

ある時、行表さまは大師に「心を一乗(いちじょう)に帰すべし」という言葉を伝えました。一乗とは、仏となることを目ざす一つの乗り物ということを意味します。仏教の教えには、様々な目的地を目ざすものがあるけれども、全ての人が必ず仏となれる一乗の教えをいつも心に大切に思うべきであるという意味です。

大師はこの言葉に大きな感銘(かんめい)を受けました。そして師、行表さまの教えをまもり、一生涯(しょうがい)を通じて一乗の教えを弘めることに努力しつづけたのです。

比叡入山

延暦(えんりゃく)四年(七八五)四月六日、大師は奈良の東大寺で、一人前の僧侶(そうりょ)となるために必要な二五〇条の具足戒(ぐそくかい)(修行者が守るべき生活規律)を授かり、国に認められた正式な僧侶となりました。ところが、本来であれば奈良に留まるか、近江の国分寺に戻り、僧侶としての地位を高めていくべきであったのですが、その後わずか三ヶ月足らずで、修行(しゅぎょう)の地を求めて人里離れた比叡山(ひえいざん)に入られました。

比叡山に入山してまもなく書かれた『願文(がんもん)』には、その時の決意があらわされています。

「せっかく人間に生まれ、仏の教えに出会うことができても、善(よ)い心を持ち続けることができなければ、地獄(じごく)の薪(たきぎ)になるより他はない。それなのに、今の私は十分に正しい修行ができていない愚(おろ)かで最低の人間である。だからこそ誰よりも精一杯努力をして、多くの人を救い導いて行くことができるような強い自分にならなければならない。それまでは、この修行を決してやめることはできないのだ。」と。

このように若き大師は、名誉や権力などの道を離れ、心を清らかに保(たも)ち、自らを高めるための最良の地として、比叡山という場所を選んだのです。

『伝教大師絵伝』自刻の薬師如来像を一乗止観院に安置した(延暦寺蔵)

延暦七年(七八八)、大師は比叡山の上に一乗止観院(いちじょうしかんいん)(後の根本中堂(こんぽんちゅうどう))という小さなお堂をつくりました。そして、自ら刻(きざ)んだ薬師如来(やくしにょらい)の仏像をそこに安置(あんち)し、灯明(あかり)を点じました。

この時、大師は「あきらけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」という歌を詠まれました。

この灯明が多くの人々によって受け継がれ、明々(あかあか)と周りを照らし続けていけるように、仏のいない時代であっても仏の教えが人々にずっと護(まも)り継がれ、人々をあたたかく照らし続けていくようにという希望を持って、薬師如来のご宝前(ほうぜん)に一つの明かりを灯(とも)したのです。この灯明は「不滅の法灯(ふめつのほうとう)」と呼ばれ、以来一千二百年以上もの間、現在まで一度も絶えることなく、比叡山の根本中堂に灯され続けています。

『伝教大師絵伝』法華十講始める(延暦寺蔵)

比叡山で修行を続けている間、大師は中国の仏教書を読み、そこに引用(いんよう)されている中国天台宗の祖、天台大師(てんだいだいし)の教えを学びました。そして、『法華経(ほけきょう)』を中心とする天台の教えこそが、すべての人々を仏へと導くために最善の教えであると確信したのです。

その後も大師は厳(きび)しい環境(かんきょう)の比叡山で修行を続けました。そしてその清らかな修行態度が評価(ひょうか)され、宮中(きゅうちゅう)で天皇の間近に奉仕して病気平癒(へいゆ)を祈る内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)という役職に任命されました。延暦十六年(七九七)のことでした。

また、大師は比叡山の修学環境を整えるために、さまざまな経典(きょうてん)(一切経(いっさいきょう))を集める計画を立てました。色々な所に声をかけて協力を仰いだところ、大師の思いに応じて奈良大安寺(だいあんじ)の聞寂(もんじゃく)法師、東国(現在の関東地方)の道忠(どうちゅう)禅師らが大量の仏典を書き写してくれました。

延暦二十年(八〇一)、大師は奈良の高僧(こうそう)たち十人を比叡山に招き、『法華経』の法会を開催しました。

それぞれの高僧が自らの立場で『法華経』の教えを説き、大師も天台教学による『法華経』の解釈を披露(ひろう)しました。それを聞いた奈良の高僧たちは、氷がとけて水となるように、いままで分からなかった問題がすべて解決する素晴らしい教えであると高く評価しました。

翌年には桓武(かんむ)天皇の側近である和気広世(わけのひろよ)さま・真綱(まつな)さまお二人の兄弟の招きにより、高雄山寺(たかおさんじ)(現在の京都神護寺(じんごじ))で天台の教えを講義し、大師の名声(めいせい)はいよいよ高まりました。また、新しい仏教の力を求めていた桓武天皇も大師に大いに期待を寄せることとなりました。

しかし大師の思いは、経典など本の知識で天台の教えを学ぶだけでは満足できるものではありませんでした。命の危険をおかしてでも唐(とう)(現在の中国)の国に渡って、中国天台宗の中心である天台山に赴(おもむ)き、正しくしっかりと天台の教えを学びたいと願ったのです。

延暦二十一年(八〇二)、桓武天皇によって、大師を唐に派遣することが決定されました。また通訳の僧として義真(ぎしん)さまの入唐(にっとう)も認められることとなりました。

桓武天皇像(延暦寺蔵)

入唐求法

延暦二十二年(八〇三)四月、遣唐使(けんとうし)一行は難波(なにわ)(大阪)を出発したものの暴風雨にあい、一年間九州に留(とど)まりました。翌年七月、肥前国田浦(ひぜんのくにたのうら)(長崎県平戸市)を再び出発しました。大師の乗った船ははげしい荒波にもまれ一ヶ月も漂流(ひょうりゅう)したのですが、当時の航海(こうかい)技術ではただ神仏に祈るより他に方法がなかったといいます。そして、ようやく九月一日に明州(みんしゅう)(現在の浙江省寧波(せっこうしょうにんぽう))に到着しました。一緒に出発した四船のうち、二船は遭難(そうなん)し、空海さまの乗っていた一船もはるか南へと流されるという、大変厳しい航海でした。

大師はさっそく天台宗の聖地である天台山(ざん)を目指し、麓の台州(たいしゅう)に到着しました。そこで天台山修禅寺座主(しゅぜんじざす)の道邃和尚(どうずいかしょう)と出会うことができました。道邃さまは大師に天台教学の書物を貸し与え、書写の便宜(べんぎ)を図(はか)ってくれました。いよいよ天台山に向かった大師は、天台山仏隴寺座主(ぶつろうじざす)の行満(ぎょうまん)和尚から天台教学を伝えられ、また禅林寺の翛然禅師(しゅくねんぜんじ)からは坐禅を学びました。

『伝教大師絵伝』天台の教えを求めて入唐する(延暦寺蔵)

国宝『伝教大師請来目録』伝教大師筆(延暦寺蔵)

天台山での受法(じゅほう)を終えた大師と義真さまは再び台州に戻り、道邃さまから天台教学と大乗菩薩戒(だいじょうぼさつかい)を授かりました。菩薩とは自らが悟(さと)りを求めるだけではなく、人々を導く修行者のことです。大乗菩薩戒とは菩薩としてのあるべき姿勢と、広く生きとし生けるものをいつくしみ救っていこうという大きな誓いをすすめる戒律のことです。道邃さまから菩薩戒を授かったことは、のちの日本天台宗のあり方を決する要因となったのです。

その後、船の出航までの間に越州(えっしゅう)(現在の紹興(しょうこう))に赴(おも)いて、偶然にも霊巌寺(れいがんじ)の順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)から、当時唐で盛んになっていた密教(みっきょう)の一端(いったん)を伝えられました。

このように大師が唐で学んだ円教(法華経)・密教・坐禅・戒律のどれもが、大師の求める一乗の教えにかなうものだったのです。

帰国後のご活躍

『伝教大師絵伝』六所宝塔の建立を企画する(延暦寺蔵)

帰国した大師を待っていたのは、桓武天皇の思わしくない病状の報(しら)せでした。そして、大師がもたらした密教が、天皇の病気平癒(へいゆ)に対する祈祷(きとう)として期待を寄せられたのです。

延暦二十五年(八〇六)、大師の上表(じょうひょう)によって今まで存在(そんざい)した諸宗に加えて新たな年分度者(ねんぶんどしゃ)が認められました。年分度者とは、国家が正式に認めた僧侶のことで、毎年決まった人数だけが選ばれ、天台宗には年分度者が二名与えられることになりました。いよいよ天台宗の立教開宗(りっきょうかいしゅう)が公に認められたのです。二名のうち、一名は止観業(しかんごう)(法華経の修行)、もう一名は遮那業(しゃなごう)(密教の修行)を専攻することが決められました。二人の年分度者には、それぞれの修行によって研鑽(けんさん)を積むことに加え、国を護(まも)るために経典を読誦(どくじゅ)し、真言を念ずることが義務づけられました。

また、大師は弘仁五年(八一四)には九州へ、弘仁八年(八一七)には東国へ赴き、東国ではかつて一切経の書写を手伝ってくれた道忠さまゆかりの寺を訪ね、多くの人々に菩薩戒を授け、密教の入門儀式である潅頂(かんじょう)を行いました。また、下野(しもつけ)(現在の栃木県内)大慈寺(だいじじ)、上野(こうずけ)(現在の群馬県内)緑野寺(みどのじ)には『法華経』を安置する宝塔(ほうとう)が建立されたほか、大師は全国の六カ所に『法華経』を納めた宝塔を安置することを計画し、その力によって国を護ることを目ざしたのです。

国宝『天台法華宗年分縁起』天台宗に年分度者を加える上表(延暦寺蔵)

その頃、会津(あいづ)の法相宗僧侶(ほっそうしゅうそうりょ)の徳一(とくいつ)法師が天台教学を批判したことから、大師との間で教えをめぐる論争が起こりました。これは、すべての人が仏となれる一乗の教えを真実とする天台宗と、能力によって仏になれる人となれない人がいるという立場の法相宗との論争であり、大師の晩年まで続けられることになります。

菩薩僧養成の悲願

国宝『天台法華宗年分縁起』山家学生式(延暦寺蔵)

日本では、鑑真和上が来日して以来、奈良の東大寺、下野の薬師寺(やくしじ)、筑紫(ちくし)(現在の福岡県)観世音寺(かんぜおんじ)の三ヶ所に戒律を授ける場である戒壇(かいだん)が設けられ、僧侶としての資格を得る時には必ずそれぞれの戒壇で受戒することになっていました。

しかし大師はこの三戒壇で授ける戒律は、自分だけの悟りをめざす小乗仏教の戒律であって、人々を仏へと導こうとする大乗仏教の菩薩の道を歩もうとする者には、大乗菩薩戒を授けるべきだと考えました。そして比叡山上で菩薩戒による授戒を行い、正式な僧侶を養成することを計画したのです。

同年、大師は「天台法華宗年分学生式(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)」(『山家学生式(さんげがくしょうしき)』六条式(ろくじょうしき))を朝廷(ちょうてい)に提出し、比叡山で学生を教育するための理念と、教育方法を示しました。

具体的には、天台宗に認可された二人の僧に大乗戒を授けて、十二年間比叡山に住まわせ、純粋(じゅんすい)な大乗の教えだけを学ばせるというものでした。

こうして育てられた人材は国宝(こくほう)、国師(こくし)、国用(こくゆう)の三つに分けられます。国宝とは学問と修行の両方の側面から、すばらしい力を発揮(はっき)できる人。国師とは学問の面に優(すぐ)れ、自分の学んだことをよく理解できる人。国用とは修行の面に優れて、実行力のある人のことを指します。大師は、国を護るためにこのような人材を養成することを目指したのです。

顕戒論(延暦寺 叡山文庫蔵)

大師は続いて「勧奨天台宗年分学生式(かんしょうてんだいしゅうねんぶんがくしょうしき)」(八条式)「大乗戒を立てんことを請う表」と「天台法華宗年分度者回小向大式(てんだいほっけしゅうねんぶんどしゃえしょうこうだいしき)」(四条式)を提出し、大乗戒の授戒による純粋な大乗の僧侶を養成することの重要性を主張しました。

しかし、奈良の仏教者に受け入れられることはなく、僧侶を監督(かんとく)する機関である僧綱(そうごう)からは強い反論が加えられました。しかし、大師は決してあきらめることなく、さらに『顕戒論(けんかいろん)』を著(あらわ)して、人々を導き、国を護ることのできる菩薩としての僧侶を育成することを主張したのです。

ご遺誡

『伝教大師絵伝』大師ご入寂(延暦寺蔵)

弘仁十三年(八二二)五月、大師は自らの最期(さいご)を自覚(じかく)し、遺言(ゆいごん)を弟子たちに伝えました。

その遺言の中で大師は、「自分が死んでも喪に服さなくてよい」とおっしゃられ、また、「国家を守護(しゅご)するために毎日、大乗経典の講義を行うように」ということを命じられたのです。

大師は正しい仏教の教えが行き渡れば、ひとびとは心の中に正しい気持ちを抱(いだ)くこととなり、国が護られると考えました。そして大師の弟子である以上、「人々を救うために、懸命(けんめい)に努力(どりょく)しなければならない。正しい修行をおこない、国家の恩(おん)に応(こた)えなければならない」と、死を目の前にしてこのような思いを告げられたのです。

また、「私はいくたびもこの国に生まれ変わって、仏教を学び、一乗の教えを弘(ひろ)めようと思う。私と心を同じくするものは、道を守り、道を修行し、あい思ってその時を待ってほしい」とも述べられています。

伝教大師の弟子たちに向けたご遺誡(ゆいかい)には、病身においてもなお衰(おとろ)えることのない、大師がご生涯をかけて臨(のぞ)まれた一乗仏教への強い思いが示されているのです。

大師のこの思いが実を結び、悲願であった比叡山上での大乗菩薩戒の授戒制度が嵯峨(さが)天皇によって認められました。『日本後紀(にほんこうき)』の逸文には、それは大師がお亡くなりになる一日前の弘仁十三年(八二二)六月三日のことだったと伝えられます。そうであれば、大師はその報(しら)せを聞き、悲願が達成されたことへの喜びに満ちあふれてご遷化(せんげ)なされたことでしょう。

そして六月十一日には、比叡山上での得度授戒(僧侶となる儀式)を認可する太政官符(だいじょうかんぷ)が正式に発給(はっきゅう)されました。比叡山の日本天台宗が、ここに名実ともに根をおろしたのです。

大師がそのご生涯を通じて目ざした仏教は、一乗の教えにあると言えます。大師の思想がきっかけとなり、その後の天台宗では様々な教えが発展することとなりました。

また鎌倉仏教の多くの祖師(そし)たちが青年期に比叡山で学び、それぞれの教えを選び求めていったことも、大師が一乗の教えのもとに、『法華経』、密教、坐禅、大乗菩薩戒などのさまざまな教えを採(と)り入れたことに由来するのです。

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