和顔愛語とは、「大無量寿経」にある言葉で、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することなのです。無財(むざい)の七施(ななせ)〔財がなくてもできる七通りの布施〕の中の和顔悦色施(わげんえつしきせ)と言辞施(ごんじせ)に通じる内容ですから、布施行のひとつでもあります。
例えば、もし混んでいる電車の中で足を踏まれたとしましょう。その時、あなたは怒ってはいけません。にこやかな顔で、
「あなたの靴が私の足の上に乗っているのですが」
と、穏(おだ)やかに言わねばなりません。何しろ布施の修行をしているのですから。
アランの「幸福論」に
「あなたがレストランに入る。隣の客に敵意ある視線を投げ付け、さらに、メニューをジロッと見て、ボーイをにらむ。それですべては終わりだ。不機嫌がひとりの顔から他のひとつの顔に移る。すべてがあなたの周囲で衝突(しょうとつ)する。恐らくコップでも割れることだろう。そして、その晩、ボーイは細君を殴りでもするだろう」という話があります。
あなたの不機嫌な行動や言葉は、あなたひとりに止まらず、次から次へと伝わっていくと言うことでしょう。それからまた、他人の不機嫌も自分に伝わり、楽しかるべき気分が損なわれることもあるのです。
さて、不機嫌が他へ伝わるものならば、その反対の上機嫌も同じく他へ伝わるはずなのです。だとしたならば、不機嫌を他にばらまくより、気分よく人に接した方がいいに決まっています。それは、誰もが望むことですが、四六時中(しろくじちゅう)気分よくしようとしてもなかなかそうはさせてくれません。他人との間では、自分の思い通りにならなかったり、嫌な仕打ちを受けたりもします。そんな時、にこやかに思いやりある言葉で接することなどできませんし、もし、そのように振る舞えたとしても、相手に媚(こ)び諂(へつら)っているようにしか思われないでしょう。
では、どうしたらよいのでしょうか。
怒りには怒りをもって応酬(おうしゅう)しますか。それでは、ギスギスした心になってしまいます。和顔愛語は、先に申しましたように仏道修行なのです。布施行なのです。他人の思惑(おもわく)などどうでもよいのです。和顔愛語を行って、他人によく思われたいと思ったならば、それは布施ではありません。あくまでも自分自身の問題であり、仏の境地に近付く第一歩なのです。