今から1400年前〈西暦597年11月24日〉、中国のお釈迦さまといわれた偉大な宗教家が亡くなられました。天台大師智顗(ちぎ)禅師です。聖徳太子が「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す。つつがなきや」という有名な国書を送った相手である隋の煬帝から深く尊敬され、「智者」の名を贈られたので智者大師というのが正式な呼び名です。しかし中国の浙江省にある天台山で修行され、天台山で亡くなられたので、天台大師と親しまれております。天台とは、天帝が住んでいる天の紫微宮(しびきゅう)〈北極星を中心とした星座〉を守る上台、中台、下台の三つの星を意味し、昔から天台山は聖地として信仰されていました。
天台大師は、日本に仏教が伝えられた西暦538年に生まれ、誕生のときに家が輝いたので光道と名づけられました。七歳の頃には喜んでお寺に通い、一度観音経を聞いただけで覚えてしまったといいます。十八歳で出家すると、当時有名な高僧、慧思(えし)禅師のもとに入門、一心不乱に修行し、法華経を読んで悟りを開きました。慧思禅師は、日本に法華経を広めるために、聖徳太子に生まれかわったという伝説が中国にあります。聖徳太子は法華経の注釈書をつくり仏教精神にもとづく十七条憲法を定めたことで有名です。その聖徳太子の理想を日本全国に広めるために、伝教大師最澄上人が、天台大師の教えを学び、比叡山に天台宗を開かれたのですから、天台大師と伝教大師は、大変深い因縁で結ばれているのです。
さて、天台大師は、当時インドから中国へ伝えられた膨大な経典のすべてを、ひとつひとつ調べて整理し、その中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であることを確信しました。そして、法華経を中心とした天台教学〈理想と実践哲学〉を打ち立てました。それは、法華三大部〈法華玄義(ほっけげんぎ)、法華文句(ほっけもんぐ)、摩訶止観(まかしかん)〉という本にまとめられ、今でも日本の多くの仏教教団に深い影響を与え続けています。この三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、奈良で勉強をしていた伝教大師の目にとまるところとなったのです。感激した伝教大師は、その本を写して比叡山に持ち帰り一生懸命勉強しました。さらに桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に危険を冒して中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後、日本天台宗を開いたのでした。
そこで天台宗では、天台大師を高祖、伝教大師を宗祖と呼んで尊崇し、お仏壇には必ずこのお二人の画像を。仏様の左右にかかげることにしております。天台大師の教えの根本は法華経に説かれている最高の真理「諸法実相(しょほうじっそう)」です。すなわち「この世の中に存在するすべてのものは、そのままが真理のあらわれ」と受けとめる立場をいい、そのように感じられたとき、それを悟りといいます。ですから我々が雑草とか虫けらといって日頃顧みないものにも命があることを心にとめる必要があるでしょう。この悟りは、止観〈座禅〉や写経、また一心に読経することなどを通じて、自分の心を静寂に保つことにより体得しうるのです。自分の心を静かに観察すると、その心に対応して外の世界があり、心の動きの中に全宇宙があること、すなわち一瞬一瞬のうちに永遠を生きていることが実感できるのです〈一念三千(いちねんさんぜん)〉。これは迷いそのものの中に悟りがある、すなわち、悩みや苦しみがあるからこそ、その彼方に生きる喜びがあり〈煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)〉、日常生活そのものの中に悟りがある、すなわち、生まれたり死んで行くその現実をそのまま受け入れられるところに過去・現在・未来の三世にわたる命を知ることができる〈生死即涅槃(しょうじそくねはん)〉ことを教えています。天台大師は60年の生涯の間、35のお寺を建立し、仏像を描いたり刻むこと十万体、さらには数え切れないほどの写経をされ、四千人もの人々を得度させたといわれています。さらに仏教史上はじめて放生会を行い、多くの魚の命を救って、生物の命を奪わなければ生きてゆけない人間の罪深さに対する反省と生きるものに対する感謝を教えました。