七福神という神は、もともとインド、中国、日本の三か国の七人の神が組み合わさって、人々に福、徳、寿などを与える神々として生れました。
この七福神の信仰を世の中に弘めたのは、江戸時代の初めに上野の寛永寺を開いた天海大僧正だといわれています。大僧正は家康公に対し「公はこの乱世を治め、天下泰平の基(もとい)を築く福徳を備えている」と述べ、合せて七福神のもつ七つの福徳を書いて示しました。
すなわち、寿老人の寿命、福禄寿の人望、恵比寿の正直、布袋(ほてい)の大量、毘沙門天の威光、大黒天の財富、唯一の女神である辨財天(べんざいてん)の愛敬(あいきょう)という訳です。家康公はこれを見て大いに喜び、すぐに狩野探幽(かのうたんゆう)に命じてこの七福神の画を描かせました。これが今日わたしたちがよく見かける七福神の画の最初だといわれています。もっとも、今日のように七福神信仰が盛んになったのは、江戸時代の後期の一八00年代に入ってからのことと考えていいでしょう。
ところで、「仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)」というお経には、「七難即滅(しちなんそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)」と説かれています。七難は、薬師経や観音経にも説かれていますが、例えば火難、水難、盗賊難などの七つです。この七難を消滅すれば、七福が生(しょう)ずるという訳です。実はこのお経の文句にあやかって、七福神の信仰が生まれたのです。では、その七福神とはどんな神様なのでしょうか。
(一)まず長寿をあらわす寿老人は、白髪の円満なお顔の老人で、よく傍(か
たわら)に鶴と鹿が描かれます。この神は南極星が神格化された神で、
人の寿命を司どるので寿星とも呼ばれています。
(二)人望をあらわす福禄寿は、長い頭をした老人で、杖(つえ)をもっていま
す。頭と胴が相半(あいなか)ばする程の長頭は人望をあらわしていま
す。この神もやはり南極星が神格化された神なのです。
(三)正直をあらわす恵比寿は、大黒天すなわち大国主命(おおくにぬしのみ
こと)の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)だといわれ、このため恵比
寿・大黒といってこの二神を並べて祀(まつ)るのです。この恵比寿は裸
に近い格好(かっこう)で鯛を抱え、おおらかにほほえむお姿で、まさに足
ることを知った無欲な神なのです。天海大僧正もよく引用された古歌「事
たらば足るにまかせてことたらす、足らずことたる身こそ安けれ」の一首
は正にこの神の心をよんだものといえそうです。この知足(ちそく)の心は
素直で正直な心から生れるので、この神は正直をあらわすとされました。
(四)大量をあらわす布袋は、契此(けいし)という中国の実在のお坊さんで、
いつも杖と袋をもっていたのでこの名で呼ばれました。後には辞世の文
句から弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身として崇(あが)められましたが、そ
の大変大きなお腹(なか)から度量の広い大量の神ともされたのです。
(五)威光をあらわす毘沙門天は、多聞天(たもんてん)とも呼ばれ、もともと
帝釈天(たいしゃくてん)の四天王の一人ですが、その武装したお姿から
威光をあらわす神と考えられました。
(六)財富をあらわす大黒天は、もともとは武力の神でしたが、後にインドのお
寺の台所に祀(まつ)られ、毎日油で身体(からだ)を拭(ぬぐ)われたた
め、真黒(まっくろ)になったので大黒天と呼ばれました。わが国で
は大黒は大国(だいこく)に通じることから大国主命と同じ神とされ、更に
物を司どる大物主命(おおものぬしのみこと)とも同体だと考えられたた
め、財富をあらわす神とされたのです。
(七)愛敬をあらわす辨財天は、もともとインドの河の神で、河川のせせらぎか
ら音楽、芸能を、また「水を治める者は国を治む」ということから武力、そ
して河川は肥沃(ひよく)な土地を造り生産物を生むことから財富を司ど
る神〈辨財天〉ともされました。また同時にその優しいお顔やお姿から愛
敬をあらわす神とも考えられたのです。
わたしたちは今でもよくこの七福神が一つの船に仲良く乗った宝船の画を見ますが、そこには、わたしたちがこの七人の神々を信仰することによって、七つの福徳をこの一身にうけ、社会の荒波を無事に乗り切っていけるようにという大きな願いが込められているのです。