天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第134号

布教師会の核を育てるために
天台宗中央布教師養成所を設立
―本年8月29・30日に延暦寺会館似て研修実施―

 天台宗布教師会は、天台宗の教えを広く一般に説く「布教師」の強化育成に取り組むことになった。そのため布教師会は「天台宗中央布教師養成所」を開設する。三年を目処に天台宗の教えに基づいた安心(あんじん)の仏教理念を、感情豊かに説法できる人材を養成するとしており「スーパー布教師」の誕生に期待が高まる。

 布教師は、寺院の法要や縁日で、檀信徒に天台の教えや仏教教義を説く役割を担う。天台宗のみならず、他宗においても布教の最前線を受け持つ精鋭僧侶である。
 総本山や大都市には、実力人気ともに優れ、各地に引っ張りだこの布教師もいるが、地方では人材が育っていないという指摘もある。またベテラン布教師たちも高齢化が進んでおり、時代に即応できる若手布教師の要請は急務とされていた。
 天台宗布教師会では、こうした現状に鑑み平成二十四年に「仏教教化活動の一翼を担い、天台宗旨を弘宣することを目的とした特別な能力を開発した専門布教師を輩出させる」ために「天台宗中央布教師養成所」の設立を提議し、各教区布教師会の賛同を得て請願を行っていた。
 天台宗も布教師会の請願に理解を示し、今年度予算においてバックアップを行っている。
 本年は、各布教師会地区協議会から推薦を受けた布教師が、八月二十九日に延暦寺会館で一泊二日の研修に臨む予定だ。
 秦順照天台宗布教師会会長は「まずは、スタート地点に立ったということ。檀信徒は、分かりやすく、有り難く、納得できる法話を求めている。時あたかも祖師先徳鑽仰大法会が展開されており、天台宗の明日を担う布教師の養成につなげていきたい」と抱負を語る。
 また、中島有淳天台宗教学部長は「布教師は、説法の場を重ねることで、より自分の言葉を深めていくことができる。その意味では期待している。伝教大師は能行能言(よく行い、よく言う)と諭されている。言葉だけでなく、態度で示し、布教することも大事だと思う。人は心から発せられた言葉に感動する。時代は僧侶が積極的に発言することを求めているから」と期待を語った。 

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

五月は好い月、花の月、
芽の月、香の月、色の月

「五月礼賛」 与謝野晶子

 たけなわの春のすべてを表現しているような詩句で、何とも心はずむ印象です。
 色とりどりの花が咲き、木々は緑の芽を出し、馥郁(ふくいく)とした香に包まれ、明るい色彩にあふれる五月が眼に浮かびます。
 四月に入学した生徒・学生や社会人一年生にとっては、一段落の季節を迎えます。
 思い描いていたような希望に満ちた生活が到来したのか、あるいは「こんなはずでは…」と落ち込む「五月病」の日々を迎えるのでしょうか。
 すでに幾多の年齢を重ね、毎年巡ってくる春にも瑞々しい感慨も憶えなくなった者には、若者達が、青葉若葉の生命力みなぎる季節と同じであってほしいと切に思うかぎりです。
 東日本大震災から三年。東北にも、春の明るい陽光が降りそそいでいます。
 筆舌に尽くしがたい悲しみと苦しみを経験してきた被災者の方々には、瑞々しい青葉若葉の生命力あふれる光景が、どのように眼に映り、どのような思いで見ておられるのでしょうか。 さまざまな命の喪失と再生を経たあと、生命力が横溢するこの緑の季節は、東北に生きる方々にも心安らぐ光景となっていれば、とも思います。
 自然は言葉を持ちません。しかし、それ以上のものを私たちに与えてくれます。「悲しめるもののために みどりかがやく くるしみ生きむとするもののために ああ みどりは輝く」と作家であり、詩人である室生犀星は『五月』という詩で詠(うた)っています。
 自然の光り輝くエネルギーを、自らの生命の糧として前に進んでいってほしいと願うばかりです。
 五月が好い月となることを祈って。

鬼手仏心

ゴールデンウィーク 天台宗出版室長 阿部昌宏

  
 ゴールデンウィークが始まった。
 私のように、どこに出かけるというアテのない者にも、ゴールデンウィークという名前は魅力的な響きを持っている。このゴールデンウィークという名称は、全盛期の映画関係者がつけたものだと、どこかで読んだ。
 かつて映画産業華やかなりし頃は、この連休に向けてお客がドンと来るように、スター総登場の娯楽巨編や、話題作を作成してぶつけた。娯楽の少なかった時代、五月の連休は映画館のかき入れ時だった。国民にとっては、休みの多いことがゴールデンだが、儲かるカツドウ屋さんたちにとっては、文字通り「黄金週間」だったのである。
 だから、と言っていいのか。新聞やNHKなど大手マスコミは、映画業界の業界用語である「ゴールデンウィーク」という名称は使わないのだという。
 なるほど、その気になって見ると、大手マスコミでは「大型連休」と表記される。二つを比較すると、大型連休も悪くはないが、響きのよさで、ゴールデンウィークが一歩優る気がする。
 だが、マスコミは一貫して「大型連休」を譲らない。「大型連休初日の今日、国際空港は海外で過ごす家族連れのラッシュが続きました」 などと毎年同じことをいう。
 最初は、カツドウ屋の自己宣伝になんか乗れるものかという意地とプライドを賭けた戦いから始まったのだろうか。いつまでたっても意地を張り続けるのは大人げないようにも思う。
 毎春、桜の時期からゴールデンウィークになだれ込むまで、世間は浮き足立つというか、騒がしい。私は、これから訪れる新緑の季節の方が、心が落ち着く。緑を揺らす風も素晴らしい。
 新緑のシーズンに吹く風を「風薫る」ともいうし「青あらし」ともいう。
 どこへ出かけても、人があまりいないのが好ましい。ひとりで青あらしに吹かれると心が清々する。

仏教の散歩道

仏教者の「終活」

 他力の信仰に徹した、すぐれた念仏者を妙好人(みょうこうにん)といいますが、その一人に「因幡(いなば)の源佐」と呼ばれる人がいます。彼は天保十三年(一八四二)に生まれて、昭和五年(一九三〇)まで生きていました。柳宗悦著の『因幡の源佐』に、彼に関するエピソードが三百近く集められています。
 その一つに、こんな話があります。
 ある男が源佐に、
 「あんたは極楽に行けるだろうが、わしは地獄行きだ」
 と言いました。すると源佐は、
 「地獄行きなら、それでええだ。あんたが極楽生きなら、阿弥陀さんはすることがないけのう」
 と応じた。地獄に堕(お)ちる人間を助けるのが阿弥陀仏の仕事であるから、地獄行きの人間こそ阿弥陀仏によって救われるのだ。源佐はそう考えているのです。
 だから、源佐の親友が臨終になって、源佐に何か慰めの言葉がほしいと使いの者を寄こしたとき、源佐自身も死の床にいたのですが、
 「今さら、詳しいことは知らんでええ」
 と答えています。それはなぜかといえば、
 「親さんはお前を助けにかかっておられるだけ。断りがたたんことにしてもらっておるだけだいのう。こっちは、持ち前のとおり死んでゆきさえすりゃあ、いいだいのう」
 というのです。親さんというのは阿弥陀仏です。阿弥陀仏はおまえさんを助けたくてしょうがないのだから、こちらはそれを断れないと思えばよい。持ち前のとおりというのは、あるがまま、そのままで死んでゆきさえすれば、あとは阿弥陀仏がしてくださる。われわれはすべてを阿弥陀仏にまかせておけばよい。源佐はそう言っているのです。
 これこそが他力の信仰だと、わたしは思います。
 近年は終活という言葉があるそうです。自分の最期を考え、遺言書をつくるとか、あれこれの準備をしておけというのですね。それに関連したセミナーが開かれ、大勢の老人たちが聴講していると聞きました。
 でも、わたしは、そんなことはしたくありません。
 なぜかといえば、わたしが死ねば、わたしの面倒はすべて阿弥陀仏が見てくださると信じているからです。わたしは死んだ瞬間、阿弥陀仏のお力によって極楽浄土に迎えていただき、そこで阿弥陀仏の説法を聴聞する。そう信じていますから、私自身の死後のことは何も考える必要はないと思っています。
 そりゃあ、わたしの死体の処理は誰かにしてもらわねばなりません。それは遺族の仕事ですから、遺族がしたいようにしてくれればよいのです。しかし、わたし自身については、遺族は心配する必要はありません。わたしは、それが仏教者の「終活」の考え方だと思っています。

カット・酒谷 加奈

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