天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第17号

比叡山宗教サミット17周年 世界平和の祈りの集い-8・4
テロと武力の即時停戦を

世界には、テロや戦争をはじめ、貧困や差別、人権抑圧等で、虐げられた生活をおくる人々がいる。
誰もが、平和に暮らせる地球をめざして、今年も対話と祈りが続くー

ー対話を続ける宗教者ー

 比叡山宗教サミットは、1987年に「世界の主な宗教指導者が一堂に集い、教義の違いを超えて、世界平和と人類への幸福への祈りをささげよう-」との趣旨で開催された。
 以来、17年が経過した。サミットで決議された平和を求める精神にはいささかも変わりがないが、私たちを取り巻く環境は激変した。
 冷戦の終結により、民族紛争が多発し、多くの犠牲者と難民が発生したことは深刻な問題となった。特に平和への流れを大きく変えた最も悲劇的な事件は、9・11テロを始めとするテロリズムの頻発と、それに対するアフガニスタン、イラクへの戦争であった。大国による単独行動主義と、報復のための自爆テロによる抵抗が激化し、泥沼化の様相を示している。 
 中東紛争は、平和的な話し合いではなく、テロや武力によって問題解決を図ろうとする傾向が強まっている。
 しかも、キリスト教社会とイスラーム社会との宗教対立が指摘されたことが、なお混乱に拍車をかけた。私たちは
9・11テロに対して国際社会に広まりつつあったイスラームへの誤解を払拭するために、2年前の15周年記念のサミットを「平和への祈りとイスラームとの対話集会」と題して開催した。
 本年の集いも、ねばり強く宗教者どうしの対話を続け、平和を求め、祈ることに主眼がおかれる。
 これまで培ってきた世界の代表的宗教指導者との絆が、平和実現への推進力となり、サミット参加者の平和への切なる祈りが、それぞれの神仏によって聞き届けられんことを、8月4日、比叡山上で参加者の皆様と共に祈りたい。

ー天台座主 平和祈願文(要旨)ー
 同じテーブルで話し合いを

 今、世界は数世紀に一度という、大きな歴史の転換期を迎えつつあるように見えます。
 イラク戦争は、戦闘終結宣言が出されてから一年以上が過ぎ、また六月には主権委譲が行われましたが、依然として戦闘とテロの応酬が繰り返され、日々犠牲者が増え続けております。イラクの問題はパレスチナ問題と結びついて、次第に民族問題へと移りつつあり、今後も緊張状態が続くのではないかと憂慮にたえません。
 また中東では、イスラエルとパレスチナに対する国際社会の平和への努力もむなしく、再び血で血を洗うような武力行使と自爆テロが繰り返されるに至りました。双方の不信と憎悪は、極限に達し、指導者の暗殺や、民族の殲滅という戦慄すべき事態に至りつつあり、その原因に宗教が指摘されております。
 しかし、戦争というものは、いつも大義や正論の裏に、野望と独善を隠していることを知らねばなりません。宗教を利用して、憎しみや不安を煽る行為こそ、神や仏の教えに背くものでありましょう。
 宗教は、戦争やテロに正当性を与えるのではなく、強い抑止力になるべきものであります。
神仏を殺戮の正当性に使った戦争は、必ずや人類を憎悪の連鎖へと追い込んでゆくでありましょう。私たちは、武力行使やテロにより目的を達そうとする政治指導者と宗教指導者に、ただちにその愚かしい行為を停止するように呼びかけたいと思います。そして同じテーブルについて話し合うことを求めたいと思います。
 そのために、本日、皆様方と共に真摯な祈りを捧げたいと存じます。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

あさがおさん
おげんきにいますか
はい
いますよ

『あさがおさん』藤 根 優 子「いわて 93 詩と児童文学大会」の花巻市長賞受賞作

 作者は、当時小学校一年生です。
 おもわず、微笑んでしまいそうな、かわいい言葉です。
 庭に咲いた、あさがおに呼びかけて、それに、あさがおさんも、優しく答えているのだと思いました。
 でも、解説を見てびっくり。少女は、花に呼びかけているのではなくて、種に呼びかけているのです。つまり、これは夏の詩ではなくて、冬の詩なんです。
 冬に、あの小さく黒い種に向かって「おげんきにいますか」と呼びかけ、黒いあさがおの種さんも「はい いますよ」といっているのです。種を蒔けば、やがて芽が出て、夏にあさがおの花が咲きます。種はいのちの源です。その思いで、もう一度読んでみると「なんと、すごい感性!」と驚くほかありません。
 人間ばかりではなく、この世に生きているものたちには、みないのちがあります。一隅を照らす運動ではその活動の柱のひとつに「共生」をあげています。みな共に生きていこうという姿勢です。
 咲きほこる花たちに「げんき」と呼びかけるのも、それはとても素敵ですが、種に「おげんきにいますか」と呼びかけるなんて、断然素晴らしいではありませんか。

鬼手仏心

枝 豆  天台宗出版室長 工 藤 秀 和

 
 岩波書店を発展させた功労者、小林勇が、枝豆の話を書いている。
 初夏に小林が歩いていると、向こうから枝豆を下げた婦人がやってくる。その瞬間に、彼は、初対面の婦人に深々と礼をして、こう聞くのである。「自分の大事な老先生が、この先に住んでいる。先生は季節のものを愛し、特に枝豆は大の好物である。その枝豆は、どこで手に入れられたか?もし、私にもそれが手に入るのならば教えていただきたい」。
 昭和二十一年のことだ。敗戦後で、食べるもののない時代である。枝豆は貴重品であった。婦人は、分けてもらうことは不可能だといい瞬時にものを思う表情をしたが、その半分を小林の手に押しつけて「これは、差し上げます」といって足早に去ってゆくのである。
 こうして得た枝豆は、老先生の食卓に上がる。小林が持参したことを聞く、と先生は「そいつは、豪気だ」というのである。先生とは幸田露伴のことだ。露伴の喜ぶ顔と、夕闇に青々と浮かぶ枝豆が見えるような名文である。
 その時のことを思うと、小林は「われながら、よくやった」と涙ぐむのだと書いている。それは、そうだろう。大の男が、道ですれ違う婦人に「その枝豆はどこで手にいれたか」と聞くのは、恥をしのんでの行為である。だから、この「よくやった」という述懐は、昨今はやりの「自分を誉めてあげたい」というのとは、違う。一方で瞬時にものを思う表情をしたが、半分を「差し上げます」といって足早に去った女性も忘れがたい印象を残すのである。
 なに、枝豆ごときのことで大仰な、というなかれ。師のために尽くそうとする小林の心と、その心を瞬時に理解する婦人の心が、胸にせまるのである。

仏教の散歩道

大乗仏教の戒の精神

 《禁煙なんて簡単だ。わたしはもう百回以上も禁煙している》
これはアメリカの小説家のマーク・トウェインの名言です。たしかに、そういう意味では、すぐに禁煙ができますね。
 昔、わたしの友人が、禁酒宣言をしました。ベニヤ板に「禁酒」と書いた札をつくり、それを自分の机の前の壁にぶら下げたのです。彼が禁酒の宣言をしたその日に、わたしは「飲みに行こうよ」と彼を誘いました。その日だけは断わるだろうとこちらは思っていたのですが、彼は、
「ああ、いいよ。行こう」
と言います。そして、ベニヤ板の「禁酒」の札をくるりと裏返しました。すると、そこには、
 ー臨時休業ー
と書かれていました。こういう禁酒であれば、簡単にできますよね。
 ところで、仏教には「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」はありますが、「不喫煙戒」はありません。これはなぜかといえば、お釈迦さまの時代にたばこがなかったからです。たばこがないのだから禁じようにも禁じられません。
 そして、不喫煙戒がないから、たばこは吸ってもいいのだー  と主張する考え方は、小乗仏教の態度です。お釈迦さまがなぜ不飲酒戒を制定されたかといえば、他人に迷惑をかける行為はよくないと考えられたからです。だとすると、酒よりもたばこの方が他人に迷惑をかけます。歩行中の喫煙によって、小学生を失明させたケースもあります。子どもたちは、喫煙者の煙によって迷惑しているのです。にもかかわらず、戒律の条文に不喫煙戒がないからといって、喫煙が許されていると主張する人は、大乗仏教の考え方を忘れているといわねばなりません。
大乗仏教では、他人に迷惑をかけないようにしようということで、お釈迦さまは戒を制定されたと考えています。
けれども、ここで勘違いしないでください。わたしたちは戒を守れる、すなわち他人に迷惑をかけずにおれると、大乗仏教は考えているのではありません。わたしたちは、他人に迷惑をかけずに生きられない存在なんです。たとえば、わたしが大学に入学すれば、誰か一人はその大学に入れなかったのであり、わたしはその人に迷惑をかけています。道を歩けば、極端に言えば誰かの邪魔になっているのです。
 だとすれば、大乗仏教における戒の精神は、たとえば酒を飲むときに、酔っぱらって他人に迷惑をかけることはできるだけなくそうと思うことです。同時に、たばこを服むときに、わたしは他人に迷惑をかけています。赦してください……と服むのです。一本一本に謝罪せねばなりません。その気持ちがない人は、大乗仏教の精神がわかっていないと言うべきでしょう。

カット・伊藤 梓

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