天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第146号

第二期祖師先徳鑽仰大法会
両内局が出仕で開闢法要を厳修

 天台宗では、平成24年4月から平成34年3月までの10年間に亘って「祖師先徳鑽仰大法会」を奉修しており、第一期では平成25年の慈覚大師一千百五十年御遠忌法要など、様々な事業を展開してきた。本年4月からは第二期に入り、1日には、総本山延暦寺根本中堂において、木ノ下寂俊天台宗宗務総長を始めとする天台宗内局並びに小堀光實延暦寺執行ら延暦寺役職者、延暦寺一山住職の出仕の下、開闢法要(かいびゃくほうよう)を厳修、第二期大法会の円成を祈願した。

 大法会第二期では、平成28年に宗祖伝教大師御生誕一千二百五十年、恵心僧都一千年御遠忌、平成29年には相応和尚一千百年御遠忌、平成33年には伝教大師一千二百年大遠忌を迎える。
 この開闢法要をスタートとし、いよいよ大法会円成に向け宗内のムードも高まりつつある。
 天台の教えと行、それぞれに大きな足跡を残された祖師方を偲び、その功績を讃える第二期の大法会。この開闢法要に際し、木ノ下宗務総長は「この大法会において、祖師方の解行双修(げぎょうそうしゅう)の足跡をたどることは、世界の平安と人々の安寧のために示されたみ教えと、信仰を尋ね求める千載一遇の御勝縁であります。戦後七十年を迎えた今、その意義は深いものがあり、宗徒の皆様、檀信徒の皆様とともにこの大法会が魔事なく円成することを願うところであります」と、心新たに決意を述べている。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 古来、日本ほど首都の居住者を貴しとし、田舎をばかにしてきた国はない。平安期は鄙(ひな)といえば一概に卑しく、江戸期の場合、江戸からみての田舎者は野暮の骨頂とされた。世界にも類のなさそうな文化意識といっていい。

『街道をいく』 司馬遼太郎

 これは司馬さんの紀行集『街道をいく』にある言葉です。
 文明の地からほど遠い辺境の地に位置する日本という国の成り立ちから観ると、文化を形成する知識、技術その他諸々の要素は、外国から入ってきたことが分かります。
 小さな島国、日本はもともと輸入した文化を消化して独自の文化へと昇華させてきました。古代以降では中国文明の恩恵に預かり、近代では、西洋文明を貪欲に吸収してきたわけです。
 ですから、国の中央に集められた情報は、改めて地方へと伝わる図式となりました。平安期には中国からもたらされた文化が地方へと。みちのくの藤原文化など、都の文化が地方で花咲くわけですね。鎖国状態の江戸期には、西洋文明が長崎を経て江戸へ、そして地方へと伝わりました。
 一方、文明が幾つも発生し、地続きで情報が伝わったヨーロッパなどは、辺境にある島国日本と違って、広大な地域で幾つも核となる「中央」が存在し、それぞれに文化を発展させ、優劣よりも文化の独自性に重きが置かれたように思えます。だから、「わが文化」に対し誇りを持っていたようです。日本は「中央への均質化」が刷り込まれたDNAがあるようで、自らの地方文化への愛情が薄く感じられます。
 最近、北陸新幹線が金沢まで開通しましたが、「首都・東京に近くなった」ことが利点に挙げられ、そのことに東京、金沢双方に違和感もないようです。東京への一極集中は、災害が起きた時の対策面などで、その弊害が指摘され、地方活性化が叫ばれていますが、このニュースを見ると、やはり意識では、中央が第一なのでしょうか。ちょっと、寂しい気もします。

鬼手仏心

戦後七十年 天台宗参務法人部長 長山慈信

天皇皇后両陛下が、戦没者慰霊のためにパラオに赴(おもむ)かれた。その御心の終戦時への深い思いが、胸に沁みる。
 終戦のあの時を思うと、私たちにも聊(いささ)かの存念と苦難の記憶が蘇(よみがえ)る。
 アブラゼミが暑さをかき立てるように鳴いていた、昭和二十年八月十五日。父の面影が今も脳裏をかすめる。
 戦地で病を得て帰還した父(師匠)は、床から身を起こしてラジオから流れ出る玉音放送に耳を傾けていた。嗚咽と共に流れ落ちる涙。放送の内容が理解できない十歳の私は、その父の姿に見入っていた。
 放送の一月ほど前−七月二十四日早朝のことである。けたたましい半鐘の音の中、飛来する爆撃機の爆音と共に、十キロほどむこうにある陸軍飛行場めがけて艦載機による機銃掃射があった。私は、防空壕から抜け出て傍(かたわら)の木に登り、目を凝らして見つめた。長老方が、屋根を突き破った弾で命を落とされたと聞いた。私は驚愕と共に恐怖に身を震わせた事を今も思い出す。その人々は、万歳の声で若者を戦地に送った人々だったからである。山陰(やまかげ)に残る掩体壕(えんたいごう)(飛行機を隠す防空小屋)には、当時の空襲のすさまじさが残る。
 自坊の近くに、平和祈念館がある。悲惨な戦争の体験を後世に引き継ぎ不戦の誓いを求める施設である。
 しかしながら現在も、中東をはじめ武力による殺戮が後を絶たない。彼らには彼らなりの理屈があるようだが、私からみれば「理不尽」きわまりない。真理は、「生きる、生かされる」でなくてはならぬ。命に優先するものはない。
 国と国との戦いも、世情の争いも、憎しみと恨みの連鎖で増幅されれば、命の尊厳は忘れられてしまう。
 行雲流水(こううんりゅうすい)、執着なき生き方をすれば、戦争など起こりようがない。パラオご訪問の御心をかみしめたい。

仏教の散歩道

記憶の違い

中学や高校の同窓会で、旧友たちと昔の思い出を語り合います。八十近いわたしですから、半世紀以上も過去の話です。そのとき感じるのは、「記憶の個人性」というべきものです。みんなそれぞれに「自分の過去」を持っているのです。だから、みんなの記憶が一致しません。そういうことがよくあります。
 イギリスの廷臣(ていしん)であったウォルター・ローリー(一五五二?−一六一八)は、反逆事件に連座して投獄され、獄中で『世界史』を執筆していました。ある日、牢獄の外でちょっとした事件があり、七、八人の囚人がその事件を眺めていた。その直後、囚人たちがいま見た出来事を語り合ったのですが、彼らが見た「事実」はてんでばらばらで、一致しません。それでローリーは、歴史事実の信憑性に疑問を抱いたと伝えられています。
 ともかく、記憶というものはあやふやなものなんです。
 にもかかわらずわれわれは、自分の記憶にまちがいはないと思っています。兄弟姉妹が集まって過去の思い出を語るとき、一方は過去に自分が施した恩恵だけを覚えており、他方は自分が受けた被害だけを記憶していることがあります。そういうことがあるというより、たいていの場合がそうなんです。自分にとって不利益な記憶は、すぐに忘れてしまう。それが人間の性(さが)でしょう。
 だから、嫁と姑の記憶だって同じです。双方がともに自分にとって都合のよいように記憶を改変しています。その上で相手を非難するのだから、処置なしです。
 では、どうすればいいのでしょうか?裁判沙汰になるような場合は別にして、近親者や仲間のあいだで過去を話題にしたとき、そこで生じた記憶の違いは、むきになって争わないほうがよいと思います。この点はわたし自身がいつも失敗ばかりしているのですが、じつは「客観的事実」なんてないのです。お互いの記憶を修整すれば客観的事実に到達できると思っていたのはわたしの誤りで、記憶というものはそれぞれの主観ですから、どちらの記憶が正しいというものではありません。どちらも正しいのだし、同時にどちらもまちがっているのです。
 その点では、わたしたちは釈迦の言葉に学ぶべきです。釈迦は、
 −過去を追うな!未来を求めるな!−
 と言っています。そもそも〈俺の記憶のほうが正しい〉と思うことが、過去を追っているのです。
 だから、過去に関して記憶の違いが生じたとき、〈どちらが正しいか〉といったふうに考えずに、それ以上、話を進めないほうがよさそうです。でも、これはいわゆる下種(げす)のあと知恵で、いつもいつもあとになってから思い浮かぶ知恵です。それは分かっていますが、はい、この次からはもっと早くに気付くようにしたいと思います…。

カット・酒谷 加奈

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