天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第148号

本堂落慶10周年記念慶讃法要を厳修

天台宗ニューヨーク別院慈雲山天台寺(聞真・ポール・ネエモン住職)では、本堂落慶から10周年を迎える。このため天台宗海外伝道事業団(山田俊和理事長)は木ノ下寂俊宗務総長を団長に記念参拝団を派遣し、去る6月13日には派遣団員の出仕、随喜による本堂落慶10周年記念慶讃法要と得度授戒会が厳修された。

 本堂落慶10周年記念慶讃法要は木ノ下宗務総長を大導師、ネエモン住職を副導師に執り行われた。(写真)天台宗仏教青年連盟(光(みつはな)栄(みつはな)純貴代表)会員やニューヨーク別院サンガメンバーが出仕し、前半を日本側、後半をアメリカ側が行う形で進められた。本堂内に設けられた随喜席は100人を越える信徒で満席となり、ネエモン住職が読経を始めると堂内には英語の般若心経が響き渡った。
 法要後の式典で、木ノ下宗務総長は「ネエモンご住職は天台宗で初めてアメリカ本土での開教をスタートされ、信徒の教化に邁進、その輪を着実に広げてこられました。ニューヨーク別院が20周年、50周年、100周年と発展を続けることで、全米の天台仏教の一大拠点として見事な歩みを重ねられますことを祈念いたします」と祝辞を贈った。
 ネエモン住職は「寛大で思いやりのある天台宗、地元や宗教コミュニティー、熱心なサンガと自然の恩恵を受けて、ここまで成長してまいりました。次の新たな一章の着手に当たり今後とも皆様のご支援とご声援を賜りますようお願い申し上げます」と謝辞を述べた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

自分がいい所へ行こう 
行こうと思うと 
少しもいい所へ行かれない 
いい所へ行こうとしなければ 
しぜんにいい所へぶつかる 
いい所へ行こうとするから 
いい所へぶつからないんだろう

山下清

 画家、山下清さんは、日本中を放浪したことで有名になりました。「裸の大将」と呼ばれ、映画やドラマにもなりました。山下さんは、幼少の頃の病気の後遺症で、軽い言語障害と知的障害を煩い、少年期には、知的障害児施設に預けられます。18歳の時、山下さんは放浪の旅に出ますが、その理由は徴兵検査をのがれるためでした。しかし、21歳の時に、強制的に徴兵検査を受けさせられますが、不合格で兵役免除となります。その後も、施設から、ふっといなくなって放浪を重ねますが、ある時、〝天才の放浪画家〟としてアメリカの雑誌『ライフ』で報道されると、一挙に日本のメディアでも取り上げられ、日本中に知られる有名画家になりました。その後は、以前のように自由な、放浪の旅はできなくなりますが、画家としての才能は、花開いていきます。
 引用したこの言葉は、放浪時代の言葉でしょうか。どこへでも、いつ何時でも、自由に思うところに行ける放浪ですが、どんな時でも〝いい所〟へ行ける訳はありません。強い我執から、〝いい所〟へ行こうとしても、結果は意に沿わない場所であったり、あまり期待も思い込みもない所への旅が、存外に〝いい所〟であったりします。
 執着を離れ、流れるままに動くと、向こうからいい結果がやって来るということで、どこか、仏教的な教えのようでもありますし、無為自然と言う意味で、老子の言葉のような感じもします。達観したような言葉で、いいですね。
 山下さんは、放浪中はほとんどスケッチもしません。旅から帰って何日も経ってから、驚くべき記憶力を発揮して、精密な風景を再現します。実際の画を見てもその緻密な描写は、目を見張るものがあります。まさに〝いい所〟の再現だと思わせてくれます。49歳で亡くなりますが、晩年の作品も本当に素晴らしいものがあります。

鬼手仏心

泣き声と祈り  天台宗参務教学部長 中島有淳

 人生は苦しみである、と仏さまはいわれた。
 私たちは生老病死(しょうろうびょうし)の四苦や、愛別離(あいべつり)苦(く)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)を加えた八苦による、苦しみの中で日を送っています。こうした苦しみは、仏さまの教えに触れることで苦しみでなくなるのです。でもその苦しみが続くということは、その教えに理解が及んでいないということでしょう。
 そこで私たちはお経や真言を読誦して、祈りを捧げるのです。法華経では〝父子の本性〟を説き、仏さまは私たちの親であると明かされています。ですから一生懸命にお唱えすれば、親である仏さまは全て理解されて、私たちを苦しみから解き放ち、安らぎを与えて下さることでしょう。
 それは恰(あたか)も、赤ん坊がオギャー、オギャーと泣き叫ぶように、声をあげてお経をお唱えし、その苦しみの解決を親に委ねるのです。親であれば自分の子どもが何故泣いているのか判ります。眠いのかお腹が空いたのか、おしめが汚れたのか…。子どもは話が出来ない分、泣くことでしか自分の辛い思いを表現することが出来ません。
 祈りは、その為にあると思えるのです。子どもである私たちは、親である仏さまから頼まれて生まれてきたことに感謝し、親の存在について疑うことなく信じ、祈りによって交流を深めていくべきと信じます。苦しみには種類や深い浅いがありますが、親の教えを学び、その教えを実践することが大切で、そこが求められています。仏さまの教えに身勝手に外(はず)れないように生活し、生きていかなければならないと思います。
 幸や不幸は〝あざなえる縄の如し〟で表裏一体といいます。
 苦しみや楽しみも同じです。その内容によって、人柄が判るといいますので、充分に気をつけたいところです。

仏教の散歩道

仏教原理主義者 ひろ さちや カット・酒谷 加奈

 わたしはみずから「仏教原理主義者」を名乗っています。
 そうすると、よく誤解されます。原理主義者といえば、人々は過激派を連想します。けれども、原理主義者イコール過激派ではありません。
 〝原理主義〟は、英語で〝ファンダメンタリズム〟といいます。これは〝根本主義〟とも訳されます。そしてファンダメンタリズムは、一九二〇年代のアメリカのプロテスタント教会内で起こった運動で、聖書の無謬性(むびゅうせい)を信じ、聖書を合理的に解釈しようとする世の風潮を批判、排斥しようとするものです。
 わたしたちの感覚からすれば、合理的に解釈することは正しいことのように思われます。しかし、「合理的」ということは世の中の都合を優先させているのです。それはちょうど『日本国憲法』の解釈と同じで、経済発展の都合上、あるいは政権党の都合上、勝手な解釈をして、それを「合理的」と称しているのです。聖書をそのように「合理的」に解釈してはならない−というのが、原理主義の主張です。
 ですからわたしは、「原理主義」の反対は「ご都合主義」だと思います。
 ご都合主義というのは、例の有名な、
 −赤信号、みんなで渡れば怖くない−
 がそうです。原理主義だと、赤信号では渡ってはいけません。でも、そんなことを言っていると、なにかと不便です。現に、高速道路で制限速度を守って運転すれば渋滞が起きかねません。それで少しぐらいのオーバーは許されるといった解釈が合理的とされるのです。
 もっとも、交通法規は世の中の問題で、世の中ではご都合主義的解釈が許されるかもしれません。だが、わたしは仏教者として、仏教においてはそんなご都合主義的解釈は許されないと思います。いや、許してはならないのです。仏教は原理主義でなければならない。それが、わたしがみずから「仏教原理主義者」を名乗るゆえんです。
 たとえば、仏教では、
 −少欲知足−
 を説きます。あなたの欲望を少なくし、足(た)るを知る心を持ちなさい、といった教えです。ところが、そんなことを言っていると、経済発展ができません。資本主義社会は、みんな欲をふくらませて、じゃかすか浪費してくれることによって維持されるのです。だから、仏教に「少欲知足」なんて言ってもらっては困ります。
 そこで一部の仏教者は、世の中の都合に合わせて、「もっとがんばれ!」「もっとやる気を起こせ!」と説きます。そんな欲望を助長しているのです。仏教の「少欲知足」の原現をご都合主義的に解釈しているのです。
 わたしは、それは仏教の自殺行為だと思います。

カット・酒谷 加奈

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