天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第19号

核廃絶と人間の善性を訴える
第18回世界宗教者平和の祈りの集いーイタリア・ミラノ

 九月五日から七日まで、イタリア・ミラノにおいて「第十八回世界宗教者平和の祈りの集い」が開かれた。泥沼化するイラク情勢や混迷を深める中東パレスチナ問題については、もちろん、地球上に頻発する紛争や貧困に宗教者は何をなすべきかをめぐり、各宗教の立場から様々な提議がなされた。世界の宗教者が、より一層相互理解を深め、力を合わせ、平和実現のために祈ることの重要性がクローズアップされた集いとなった。

 今回の「集い」の主催はカトリックの信仰団体である聖エジディオ共同体。天台宗からは、天台座主名代として半田孝淳探題大僧正や西郊良光天台宗宗務総長ら、二十四人が出席した。
 代表団は、世界から集まった宗教者と真剣な意見の交換を行うとともに、一刻も早い平和実現への祈りを共に捧げた。
 席上、半田大僧正は二十世紀が「戦争と大量殺戮の時代」であったこと、また今世紀は現代の世界情勢からみると「憎悪と報復の時代」であると指摘。さらに、現在の紛争の根底に宗教対立があるという見解に言及し、「それは、テロや戦争を仕掛ける側の巧みな大義のすり替えにほかならない。宗教は戦争やテロに正当性を与えるものでなく、強い抑止力になるべきである」と主張した。特に、唯一の被爆国である日本の立場から、核兵器の永久根絶を強く訴えた。
 そして、宗祖伝教大師の「忘己利他」の深い精神性に立脚した宗教者としての「平和への使命」を訴えた。この論旨に対して世界の宗教者からも熱い反応があり、その後、活発な質疑応答がなされた。

-ヒューマニズムの中心に宗教が-

 また、西郊宗務総長は今回の集いの総合テーマである『宗教と文化・新ヒューマニズムについて』に関連して「天台宗のヒューマニズム」と題する講演を行った。その中で、現代の抱える諸問題、人権、臓器移植、死刑制度、などに触れ、それぞれ仏教、特に天台宗としての立場からの見解を明らかにした。
 また、宗教とヒューマニズムの関係について「ヒューマニズムを持たない宗教はあり得ない。外周をヒューマニズムが取り巻き、内側の核が宗教であろう。例えば、故マザーテレサ尼の無償の行為は常に神によって支えられていたことからも同心円の外側はヒューマニズム、核が宗教であることが分かる」と見解を述べた。そして、ヒューマニズムが人間の善性に基づき、仏教がその善性を更に大きく、強固に育てるものであることを主張した。
 最終日には出席した世界の宗教者がミラノ各地に分かれて祈りを捧げた後、一つに合流し、世界平和を真摯に希求する平和行進を行った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

犬も
馬も
夢をみるらしい

動物たちの
恐ろしい夢のなかに
人間がいませんように

『動物たちの恐ろしい夢のなかに』川崎弘「祝婚歌」(山梨シルクセンター出版部刊)

 夏の盛り、日差しがジリジリと照りつける中、蟻が行列を作って何やら一所懸命に働いています。
 幼い子がそれを見つけてじっと見ています。すると突然、その子は、蟻の行列を足で踏みだします。母親は言います。「蟻さん、かわいそうに。お父さん、お母さんにもう会えなくなちゃった」。子どもはハッと気が付きます、蟻が自分と同等の生命を持った存在であることに。こうして命の尊さを学びながら、人は成長していくのですが、なかなか人間中心の生命観から逃れられません。生き物の頂点に立つのは人間、下等動物は人間に従属するもの、利用するもの、としてしか見ない視点。本当は命に優先順位など付けられません。地球上のあらゆる場所で、あらゆる形で生きている命は平等です。共に生きているという思想を持っていれば、そうした命の犠牲の上で、人間の生活はなりたっていることを忘れないでしょう。そして、感謝するでしょう。
 それにしても、動物たちは人間のことをどう思っているのでしょうか。

鬼手仏心

『ふかぬ堂』 天台宗出版室長 工 藤 秀 和

 
 「二百十日」、あるいは「二百二十日」などといっても、近頃は通じないことが多い。農家の三大厄日とされている、台風襲来の特異日のことである。
 立春から数えての日数で、毎年九月一日や十一日頃がその日にあたる。かつては、節分・八十八夜・彼岸・入梅・土用などと共にポピュラーな言葉だったが。
 今年は、本当に二百十日の言葉どおり、台風がよく襲来した。七つもの台風が上陸したのは観測史上初めてという。各地の被害も甚大で、罹災された皆さまには心よりお見舞い申し上げる次第である。
 科学万能の現代でさえ、台風をよける手だてがないのだから、昔はその脅威は計り知れなかった。特に農業に従事する人々は厄そのものだっただろう。
 富山には「ふかぬ堂」という風神堂が十数箇所ある。大風が吹かぬようにと願って祀ったものであろう。谷間ぞいに、風が吹きおろすフェーン現象の顕著な地域に分布している。ふかぬ堂とは、ちょっとユーモラスな名前だが、大風に襲われる側にしてみれば、必死の祈りを込めるお堂であった。
 また和歌山県を中心に、マグニチュードが強い地震も、頻発している。台風と違って、情報が全くない所に、いきなり始まるのであるから、気持ちが悪い。こちらも、今のところ避ける手だてはない。そう思えば、人間というのは、自然の前には小さな存在だと思わざるをえない。
 古来より、日本人は自然に神が宿ると考えていた。その荒ぶる神を鎮めることが、宗教や祭りの根っこにある。
 科学の発展は多いに歓迎するが、「今日も一日、皆が無事でありますように」と手を合わす謙虚な姿勢も、忘れないようにしたい。

仏教の散歩道

我ら在日仏教人

 篠原令著『妻をめとらば韓国人!?』という本を読みました。著者は、韓国人女性と結婚した日本人男性です。日本と韓国は隣同士の国ですが、その国民性(ものの考え方)は大きく違っています。その考え方の違いから生じるトラブルが、いろいろと報告されています。
 たとえば、韓国人は派手好きで、見栄っぱりで、虚栄心のかたまりです。いえ、わたしが言っているのではありません。著者の篠原氏の言葉を、わたしが引用したのです。韓国では、人を評価する基準はまず「見てくれ」だから、ちょっとした散歩、スーパーへ行くのでさえ、身なりをきちっとして行かないとバカにされます。だから、娘さんが小学校にあがったとき、韓国人の妻は毎日娘にブランド物を着せようとします。夫も娘も、「日本の学校では普段着でいいんだ。なるべく目立たないようにしないといじめられるよ」と言うのですが、韓国人にはそれがなかなか信じられないのです。韓国では、逆にいい物を着ていかないといじめられるのですから。
 奥さんである在日韓国人はいろいろ苦労をしているのですね。
 と同時に、この日本人男性が韓国で生活するときの苦労も、この本には書かれています。在韓日本人にも、いろいろ苦労があるのです。
 ところで、在日韓国人の苦労、在韓日本人の苦労といった言葉から、わたしは、ふと、
 ─在日仏教人─
 といった言葉を考えてみました。わたしたちは、もちろん日本人です。けれども、仏教を学ぼうとする者は、その前に「仏教人」でなければなりません。そして、日本人と仏教人では、ずいぶんと国民性が違います。ものの考え方が違うはずです。
 たとえば、日本は激烈なる競争社会ですから、日本人であれば競争の勝者になりたいといった願望を持ちます。だが、仏教人であれば、「競争は悪だ! 競争してはならない!」と考えるはずです。
 また、日本人は飽くなき欲望を持ち、その欲望を充足させようとします。欲望を充足させると幸福になれると信じています。けれども仏教人は、
 ─少欲知足(欲を少なくし、足るを知るこころを持て)─ 
 と考えます。ある意味で正反対です。
 そして、日本人と仏教人の考え方の違いから、いろんな苦労が生じます。考え方が正反対なんだから、当然、苦労は大きいでしょう。それは仕方がないことです。
 そこで、わたしたちは「在日仏教人」を自覚しましょう。日本に住んでいる以上は、完全に仏教人として行動できません。かといって、仏教人であることをやめて日本人になってしまってはよくない。苦労しながら在日仏教人として生きよ。それが仏教者としての生き方だと思います。

カット・伊藤 梓

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