天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第251号

北陸教区で甚大な被害
令和6年能登半島地震

-金沢市内で支援方針を協議-

 令和6年能登半島地震の発生を受け、天台宗では1月9日に天台宗災害対策本部を設置した。

 珠洲市の翠雲寺(岩尾照尚住職)と藥師寺(井上惠照住職)はじめ、金沢市内にある寺や多くの檀信徒らが被災している。

 1月21日には、阿部昌宏宗務総長らが金沢市内にある4カ寺へお見舞いに訪れ、北陸教区の光照良浩宗務所長や天台宗防災士協議会、天台仏教青年連盟らと今後の支援方針を協議した。(4面に関連記事)

 天台宗務庁に設置された「令和6年能登半島地震天台宗災害対策本部」は、本部長に阿部宗務総長、副本部長に水尾寂芳延暦寺執行が就任。

 「被災地の情報収集、現地への救援調査団の派遣、救援方法の決定、救援活動の推進、救援募金の依頼」の5項目を重点に置くことを決めた。9日付けで全寺院に文書を送付している。北陸教区も14日に「災害対策本部」を設置した。

 天台宗務庁社会部は、1日の発生直後から北陸、信越両教区の宗務所長に電話連絡し、被害状況の確認などを依頼。3日から9日にかけて、宗と延暦寺の両内局、天台宗防災士協議会、天台仏教青年連盟の代表者らとオンラインを活用しながら協議を重ね、方針などを検討してきた。また公式ホームページにお見舞文を掲載した。

 石川県内には天台宗寺院が10カ寺あり、そのうち能登地方には珠洲市に2カ寺ある。翠雲寺では、本堂玄関と鐘楼堂が全壊。また、屋根瓦が落ち、境内の石塔や墓石が倒壊しており、檀信徒宅も津波による被害を受けている。

 同市の藥師寺がある高屋地区全域で被害が大きく、金沢市内の各寺でも壁の剥離や墓石が倒壊するなどの被害が報告されている。

 地震発生当時、本堂にいた翠雲寺の岩尾住職は「令和5年5月の地震より強い揺れを感じた。津波を避けるためすぐに高台へ移動し、その後は地区の集会所に避難した。

 2週間経過し、今も電気は復旧していないが住民同士で支え合いながらなんとか生活している。住職として地区の皆さんに寄り添い、心のケアにも努めたい」と話す。

 また、一隅を照らす運動総本部は「地球救援事務局」を窓口とする緊急救援募金を始めた。すでに宗内全寺院に文書で周知しており、3月25日(月)まで募っている。寄せられた義援金や支援金は被災地の各行政や公的支援機関などを通じて送られる。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

時のすぎるのが早いか遅いか、それに気づくこともないような時期に、人はとりわけて幸福なのである。

ツルゲーネフ『父と子』

 好きなことをしているとき、例えば、好きなスポーツをしているときであるとか、好きな音楽やドラマや映画を楽しんでいるときなど「時間の経つのを忘れ」たりすることがあります。

 もちろん、時間の経つのが早いと感じるのか遅いと感じるのかは、状況と人にもよるものでしょうが、要は「夢中になる時間」ということでしょうか。

 ただ、「幸福」であるという思いを、その時点で持つことは難しいことです。いちいち「幸福」だという気持ちでいるわけではないでしょう。時が過ぎ去ったのち、「幸福な時間だった」と思うのがたいていではないでしょうか。

 一人の人間の一生を考えてみましょう。子どもの頃は何事においても初めて経験することが多くあります。

 毎日が未知の世界に足を踏み入れるようで新鮮な経験の積み重ねとなり、時間も長く感じられます。「幸福感」も増すことでしょう。一日、一週間、一月という時間が実際の時間に比べて長いのです。

 一方、大人になると、慣れ親しんだ経験の積み重ねとなり、時が経つのが早く感じられます。新鮮な経験が生み出す「幸福感」も歳を経るにつれ、次第に薄れてくるのでしょう。

 ですが、歳をとったからといって、「幸福感」を喪失するわけではありません。「生きている」ことを如何に考えるかにかかっていると思います。やはり、大事なのは「夢中になる時間」を持つことではないでしょうか。

 歳をとっても、若々しくはつらつとしている人がいます。そういう人は、仕事や趣味でも一生懸命に打ち込んでいる姿が目に浮かびます。そうした姿を見るにつけ「幸福」の意味について考えさせられます。

鬼手仏心

新しい年を迎えて

 新しい年を迎えた元日の午後4時10分、突然石川県能登半島を中心に、マグニチュード7.6、最大震度7を観測した「令和6年能登半島地震」が襲い甚大な被害を出しました。犠牲となられた多くの方々のご冥福をお祈りするとともに、一刻も早い行方不明の方々の救出と、被災地の皆様へのお見舞いと復興を心よりお祈り申し上げます。

 さて、2月3日は節分です。一年で最も寒い大寒の末日を節分と言い、翌日は立春と言って暦の上では春を迎えます。

 節分には「鬼」が登場します。一般に「鬼」とは「隠(おん)」がなまったもので、物に隠れてよくわからないもの、人間に危害を加える想像上の怪物で、死霊や生霊だといわれています。

 節分の行事は、奈良時代の宮中の行事で、家の門や戸口に柊(ひいらぎ)の枝に鰯(いわし)の頭をつけたものをさし、日暮れに豆まきをする習慣がありました。

 私達に様々な危害を及ぼす象徴が「鬼」であり、「鬼」を追い払うことで、戦争や疫病や様々な災害、災難を除き、無病息災を祈る行事が節分なのです。

 「鬼は外、福は内」。仏教では、節分の鬼を煩悩にたとえ、貪(むさぼ)りの心を青鬼、瞋(いかり)の心を赤鬼、痴(ち)の心つまり人を疑い、ねたむ心を黒鬼にたとえ、心の中の煩悩という3匹の鬼を追い出し、平和で幸せな福をもたらすと、教えています。

 つらく厳しい冬のあとの春のぬくもりの中に生命のいぶきを、そして被災された皆様へのお見舞いと今後のご多幸を心よりお祈り申し上げます。                          合 掌

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