天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第33号

宗務総長に濱中光礼師を選出
28年ぶりの選挙戦で決定

 任期満了に伴う天台宗宗務総長選挙は、十一月二十五日に開票され、濱中光礼師(滋賀教区・金剛輪寺)が、最高得票を得て選出された。任期は四年。今回の投票率は八十二%であった。

 今回の宗務総長選挙は、昭和五十二年以来二十八年ぶりに実施されたことに加え、立候補者が現職の西郊良光宗務総長(神奈川教区・円満寺)、宗議会東西二大会派の推薦を受けた濱中光礼前宗議会議員(滋賀教区・金剛輪寺)、村上圓竜前東海教区宗務所長(東海教区・延命寺)という天台宗主要役職者で争われ、有権者から高い関心が示された。
 今回の立候補にあたって濱中師は、和合僧という立場から話し合いによる選出がベストである点と、宗議会の支持を得た正統性を主張。立候補を表明した三師ともそれぞれにマニフェストを表明し、選挙戦に突入することになった。
 今回当選を決めた濱中師は、そのマニフェストで「総本山の護持」と「新事業部の立ち上げ」等を掲げて広く支持を集めた。  

当選した濱中新総長の談話
 「有権者各位のご支持を頂き、天台宗宗務総長に当選させて頂いたことに感謝申し上げる。任期中、公約した総本山護持、事業部の立ち上げや、一隅を照らす運動の推進に全力を傾注したい。機構改革はゆっくりと考えて取り組みたい。組局は、各方面のご意見を充分に承り、挙宗一致の内局を考えている」。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 人の一生を安全なことがいちばん仕合わせと考える人にとっては、やってみなければわからないことは、みんな危ない仕事なのである。

「仕事師列伝」 新藤兼人著 同時代ライブラリー・岩波書店

 現代は、効率と予測で成り立っています。「そんなことをして、何になるのか」という問いかけに「やってみなければわかりません」と答えれば「無責任なことを言うな」と言われるでしょう。
 あらかじめ予測可能なことが正しいことで、予測不可能なことは悪なのです。しかし、私たちの人生でも「想定内でない」事態はしばしば出現します。就職でも、結婚でも「やってみなければわからない」ことだらけです。今の若者が「自分に合った仕事がない」などと言うのは、どうも予測をしすぎて、危ないことを避けるための言い訳のように思われます。
 最終的な基準は「後悔する」か、「後悔しない」かでしょう。自分の判断で、成功すれば言うまでもないのですが、失敗し、世間的な見方をすれば負け組になったとしても、チャレンジしたことは、財産として残ります。案外、安全な道ばかり選んで生きた人の方が後悔が深いのかも知れません。
 初めて南極上陸を果たした日本南極観測隊の西堀栄三郎隊長は言っています。
 「とにかく、やってみなはれ。やる前から諦める奴は、一番つまらん人間だ」。

鬼手仏心

精進料理  天台宗出版室長 工藤秀和

 
 比叡山で修行する僧侶たちの食事は、魚や肉を使わない精進料理です。比叡の童歌にも「山の坊さん 何食て暮らす ゆばの付け焼き 定心房 (坊)」と歌われている通りです。
 定心房とはたくあんのことで、司馬遼太郎さんは「たくあんの発明者は、天台宗の総本山・比叡山延暦寺の第十八代座主である元三大師だといわれている」と書いています。
 ゆばの付け焼きなどは、現代ではなかなか贅沢なものになっていますが、当時は貴重なタンパク源だったのでしょう。
 通算すれば、地球を一周するだけの距離を歩く千日回峰行者の食事も、もちろん精進料理です。ある行者さんから「野菜を食べる時には、油をたくさん使った『野菜炒め』にする。体に油を補給しないと、足がひび割れて歩けなくなる」と聞いたことがあります。
 限られた材料を工夫するのも、また大事な修行のひとつだと感心しました。
 食事を修行にまで高められたのは、比叡山で修行され、曹洞宗を開かれた道元禅師です。禅師には「典座教訓」という著書があります。典座とは修行僧たちの料理を作る役目ですから、現代語でいえば「精進料理責任者必携」とでもなりましょうか。
「ご飯をたく際には、鍋を自分そのものだと思い、米をとぐときには、みずを自分自身の命そのものと考える」という厳しさで「材料は人間の眼の玉を扱うように大切に扱え」というのですから、なまなかな人間には勤まりません。
 大根の切れ端はもちろん、水一滴、米一粒でも粗末にするようでは修行僧落第なのです。

仏教の散歩道

所有権は誰にあるのか?

 ヘブライ語には所有する(英語だとhave)といった動詞がないそうです。なぜかといえば、この世界に存在するすべての物の所有者は神であって、人間には所有権がないのです。そうすると、たとえば日本語でわたしは、時計を持っていますといった文章は、ヘブライ語だと、
 この時計はわたし(の使用)に向けられている
 となります。そういうことを前島誠氏が書いておられました(『春秋』二〇〇二年十二月号)。
 おもしろいですね。この世に存在するすべての物は神のものであり、人間には所有権がなく使用権しかありません。あるいは人間は神のものを一時的に預かっているのです。そのように説明してもいいでしょう。
 じつはこの考え方は、わたしは仏教にも通じるものだと思います。というのは、『法華経』の「譬喩品」において、釈迦仏が、
 《今、この三界は皆、これ、わが有なり。
 その中の衆生は、悉くこれ吾が子なり。》
 と言っておられるからです。この宇宙(三界)は釈迦仏の所有に属します。そして、われわれはみんな釈迦仏の子なんです。それが仏教の見方なんです。
 わたしは、いつか講演会で、
 「昔の人は、子どもはほとけさまから授かるものだと考えていました。この子は観音さまから授かった子だ、とそんなふうに言っていたのです」
 と話しました。すると、ある女性が、
 「先生、子どもはほとけさまから授かるのだということはよくわかりました。しかし、授かった以上は、子どもは親のものなんでしょう…?」
 と質問されました。つまり、子どもの所有権を主張されたのです。あれにはびっくりしましたね。
 親に子どもの所有権を認めると、親は子どもを自分の好きなように育てようとします。そうすると子どもは不幸になります。
 子どもはみんなほとけの子です。『法華経』はそう説いています。だから親は、子どもをほとけさまから預かっているのです。所有権は仏にあってわたしたちには所有権がないことをしっかりと銘記する必要があります。
 子どものうちには、勉強の好きな子もいれば、嫌いな子もいます。あるいは、ハンディキャップのある子もいます。勉強の好きな子は、勉強が好きなままその子を幸せにしてあげる。それがほとけさまから依託されたことでしょう。反対に勉強の嫌いな子は、勉強が嫌いなまま幸せにしてあげるのです。無理に勉強が好きな子にさせる必要はありません。
 目が見えない子は目が見えないまま、自閉症の子は自閉症のままで幸せにしてあげる、それがほとけさまの望んでおられることではないでしょうか。わたしはそう思うのです。

カット・伊藤 梓

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