天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第37号

比叡山に命を植える
-来る5月27日に12000本の「ほうとうの森」大植樹祭-

 比叡山で千二百人が植樹する「比叡山『ほうとうの森』大植樹祭」が五月二十七日に開かれる。毎日新聞社が創刊百三十五年を迎えたことを記念して行うもので、開宗千二百年の天台宗並びに延暦寺が共催する。全国から千二百人の参加者を公募し、一万二千本の苗木を植える。比叡山に「いのち」を植える環境保護啓発の一大イベントである。

 比叡山は約二百五十万本の樹木が生い茂っている。かつては自然林であったが、戦前からは、檜や杉も植樹されてきた。
 その結果、檜、杉は、今では比叡山全体の約九割を占めるに至っている。杉などの針葉樹は根が浅く、保水力が弱い。そこに保水力のある広葉樹を植えることで、土砂崩れなども防ぐことが出来る。
 延暦寺では、今後は自然林に戻す方針という。
 この植樹祭では、シラカシ、アラカシ、山桜などの広葉樹が植えられる。針葉樹と広葉樹のバランスの取れた生態系をめざすことで、かって宗祖伝教大師が修行された千二百年前の比叡山の姿が戻りそうだ。

 -環境保全に大きな意味を持つ植樹-
 今回の植樹祭で指導に当たるのは宮脇昭(財)国際生態学センター研究所長(横浜国立大学名誉教授)。ブラジル原生林の復活、砂漠化が進み不可能と言われた万里の長城周辺の植樹に成功し、「三千万本の木を植えた男」といわれる植生学の権威である。
 当日は植樹リーダー百人を指揮し、参加者全員の植え付け作業を指導する。植樹の場所は、奥比叡ドライブウェイ沿いに位置する「峰道レストラン」周辺で、いわゆる行者道の辺りである。ハイカーも多く訪れるところで、今回植樹に参加した人達も、自分の植えた木々の成長を見届けることが出来る。
 世界的規模で見ると、年々原生林の減少や砂漠化の拡大など、森林の環境悪化が伝えられており、環境保全のため、このような植樹の試みは大きな意味を持つ。
 濱中光礼宗務総長の談話
 「全国から千二百人を招き、一人ひとりに十本の植樹をして頂き、計一万二千本を比叡山に植えて頂くということは、誠に時宜を得た浄行であり、心よりご賛同と御礼を申し上げる。宗祖伝教大師様は、開宗理念を法華一乗の精神に求められ『人間ばかりではなく、草にも木にも仏性があり、すべては仏に成ることができる』と説かれています。その比叡山に善男善女が登叡され、植樹されるならば、御仏の歓喜はいかばかりかと存じます」と述べている。
  ◎     ◎
 なお、植樹の後、午後二時より酒井雄哉大阿闍梨の法話も行われる。
  ◎     ◎
 問い合わせは「比叡山大植樹祭」係まで。
 電話〇六・六三四六・八〇一八(平日十時~十八時)

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

雨の日に帰ってくると
玄関でぞうきんが待っていてくれる
ぞうきんでございます
という したしげな顔で
自分でなりたくてなったのでもないのに

「ぞうきん」 まど・みちお かど創房刊

 掃除は、僧侶の大事な修行のひとつですから、ぞうきんは必需品です。
 寺では、ボロになった布を縫い合わせて作ります。ものを生かして使い切るのです。
 ボロ布といえば、お坊さんの袈裟も、お釈迦様の時代は、布施してもらった布や、道に落ちているボロ布を接ぎ合わせて作られていました。その衣を糞雑衣(ふんぞうえ)と呼びました。
 お坊さんの袈裟は、糞ぞうきんの寄せ集めだったのです。袈裟に、お坊さんの生き方が象徴されています。そうして、現世の欲にとらわれないような修行をしました。
 ぞうきんに喩えられるように、人の嫌がる業務や、体を酷使する仕事は敬遠され、また軽んじられがちです。けれども、誰かがそのことを引き受けなくては世の中は成り立ちません。
 確かに「自分でなりたくてなった」のではなくても、ぞうきんのように「したしげな顔」で、皆の役にたつよう頑張るのが一隅を照らすということです。
 まどさんは「ぞうさん、ぞうさん、お鼻がながいのね」で知られる童謡詩人です。

鬼手仏心

新入社員諸君!  天台宗出版室長 小林 祖承

 
 桜が開花する四月は新しい人生の始まる季節でもある。
 毎年この時期には、作家・山口瞳の「新入社員諸君」と題する文が新聞に載った。広告ではあるのだけれど、実に心にしみる名文であった。それは日本の新人サラリーマンを励ますと同時に、中堅、重役にも「襟を正さなくては」と思わせるものだった。
 十八回連載されたというが、今も鮮明に覚えているのは、平成五年の「新入社員諸君『悠揚迫らず』でいけ」である。
 山口氏は「新入社員諸君!(略)心の奥底に『見た目に美しくないことは悪である』という信念があれば、大きな過ちを犯すことはない。新人でも焦っては駄目だ。悠揚迫らずでいけ」と書いていた。「ミットモナイことをするな」とも書いていた。
 山口氏が歿して十一年になる。日本には「見た目に美しくないこと」、「ミットモナイこと」が蔓延している。それが新入社員のすることならまだしも、日本や企業の代表が白昼堂々と「ミットモナイことをする」のであるから情けなさに涙がこぼれる。
 どうしてこうなってしまったのか。「競争こそ正しい」という論理に日本中が感染しているからだ。
 競争社会は、自分以外を敵と見なす、あるいは見なさなくては勝てない社会のことである。「悠揚せまらず」では負け組になる。その軋みが日本を危うくしている。
 お釈迦様は、大金を稼がれたわけではない。一国の王子の身分を捨て、托鉢をして教えを説かれた。そのお釈迦様を、私たちは美しいと思い、有り難いと思う。
 新入社員諸君!悠揚迫らず、助け合って生きよう。
 それでもこの人生なかなか大変なんだ。

仏教の散歩道

やはり死はこわい

 新聞広告に、科学者が書いた新刊が出ていました。そこに、
 《死ぬのはこわくありません。生命科学を通し、『般若心経』の心に触れてそう思えるようになった》
 とありました。それを読んだとたん、
 〈嘘だ!嘘にきまっている!〉
 と、ちょっと腹立たしく覚えたのです。死ぬのがこわくないなんて、嘘にきまっていますよね。
 でも、そのあと、すぐに反省しました。他人さまがそう思っておられるのを、それは嘘だときめつける権限がこちらにあるのだろうか……と。本人がそう思っているのであれば、それは本人の勝手だからほうっておけばよい。しかし、そうは考えても、なかなか釈然としません。
 そこで一つの話を思い出しました。
 関山慧玄(かんざんえげん)は南北朝時代の禅僧で、妙心寺の開山です。その関山が天龍寺に夢窓疎石(むそうそせき)を訪ねます。夢窓は天龍寺の開山です。そして関山は、夢窓に禅問答を挑みました。
 「迦楼羅(かるら)が大空を舞うとき、天龍はどこにいるか?」
 迦楼羅というのは仏典に出てくる想像上の大鳥で、サンスクリット語でガルダといいます。また金翅鳥(こんじちょう)とも呼ばれます。口から火を吐き、そして龍をとって食うとされています。関山は自分をこの迦桜羅になぞらえ、天龍寺の夢窓を龍と見て、この問答をしかけたわけです。
 なかなかうまい挑戦ですね。
 それに対して夢窓はどう応じたでしょうか……?
 彼はすぐさま、
 「おお、こわい、こわい」
 と言いながら、屏風の後に隠れました。
 それを見て、関山は夢窓を礼拝したと伝えられています。
 わたしたちは、こわいものがない、恐れるものがないのが勇気ある人間だと思っています。だからシェークスピアは『ジュリアス・シーザー』の中で、
 《臆病者は、ほんとうに死ぬまでにいくたびも死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない》
 と書いています。しかし、そんなものは本当の勇気ではないでしょう。禅が教えているのは(ということは、仏教が教えていることなんですが)、本当の勇気というものは、こわいものをこわがる、恐ろしいものを率直に恐ろしいと思うことでしょう。少なくとも、禅僧の夢窓は、こわいものを「こわい、こわい」と言って逃げたのです。その態度に、関山は感激したわけです。
 わたしは、いくら仏教を勉強しても、死ぬのはこわいです。それは、おまえの仏教の勉強が足りないからだといわれるかもしれませんが、こわいものはこわくていいと思っています。一種の開き直りかもしれませんが、わたしはそのように考えているのです。

カット・酒谷 加奈

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