天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第58号

天台宗全国一斉托鉢を実施

 天台宗では、毎年十二月一日、全国一斉托鉢を実施しているが、昨年も同日に実施された。師走のスタートとなる日の一斉托鉢ということで、今では「師走の風物詩」として定着している。この日を含め、全国各教区で行われた托鉢に寄せられた温かい浄財は、NHKの歳末たすけあい、各地の社会福祉協議会、日本赤十字社、一隅を照らす運動総本部の地球救援募金などを通じて、国内及び、海外の恵まれない方々に贈られた。

 天台宗全国一斉托鉢が昨年も十二月一日スタートした。
 昨年で二十二回目を迎えたが、振り返れば、昭和六十一年十二月一日、故山田惠諦天台座主猊下が自ら先頭に立ち、浄財を集められたのが第一回目であった。
 宗祖伝教大師の「忘己利他」の精神を実践に移す行動として始められ、その後、一隅を照らす運動の一環として十二月を「地球救援募金強化月間」と定めて活動を拡げるなど、今では、天台宗全体の取り組みとして定着している。また、この一斉托鉢に寄せられる全国の人々の思いや協力も、年を追うごとに大きなものになっている。
 同日は、半田孝淳天台座主猊下を先頭に濱中光礼宗務総長、延暦寺一山住職、天台宗務庁役職員など約百名が参加、比叡山麓坂本地区を中心に一斉托鉢を実施した。托鉢は法楽の後、宗祖生誕の地・生源寺を出発、坂本地区の里道を般若心経を唱えながら行脚。道筋の家々の玄関先には既に一行が来るのを待っておられる方々も多く、ねぎらいの言葉とともに貴重な浄財を喜捨されていた。その後、参加者たちはそれぞれ少人数に別れ、坂本地区内を戸別に廻ったり、JRや私鉄の駅前で街頭募金を行い、多くの人々から善意を受け取った。
 被災した方々、経済的に困窮している人々。さらには、紛争に巻き込まれ、悲しみの中に沈む国外の人々。こうした方々の苦しみを少しでも分かち合うという意味において、一斉托鉢は御仏のこころを実践する原点となっている。

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曼殊院門跡門主に藤光賢師

 天台宗では、昨年十一月二十七日に門跡寺住職推薦委員会を開催、空席となっていた曼殊院門跡(京都市左京区)の門主に藤光賢大僧正(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・金乘院住職)を選出した。
 任期は昨年十二月二日より七年。仮入山は十二月十二日に執り行われ、晋山式は今春四月頃の予定である。
 曼殊院門跡は、半田孝淳前門主が昨春、第二百五十六世天台座主にご上任されたのに伴い空席となり、これまでは濱中光礼天台宗宗務総長が代務していた。
 藤新門主の略歴
 昭和七年生まれ。七十五歳。昭和二十五年得度。比叡山高校、大正大学文学部卒。天台仏教青年連盟代表二期、昭和五十四年より、天台宗宗議会議員五期歴任。宗議会副議長、議長を経て、平成九年十二月より同十三年十二月まで宗務総長を一期務めている。
 現在は天台宗宗機顧問、一隅を照らす運動顧問、日中友好天台宗協会顧問、天台宗国際平和宗教協力協会顧問などの役職にある。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

「最後だとわかっていたなら」ノーマ・コーネット・マレック 訳 佐川睦(サンクチュアリ出版)

 この詩は、2001年9月11日の同時多発テロの時に、チェーンメールによって全世界に広がりました。最初はテロの救出作業で亡くなった若い消防士が書き残したものだと紹介されていましたが、のちにノーマさんが亡くなったわが子を偲んで書いたものと分かりました。
 亡くなった子どもに伝えたかったけれど、伝えきれなかった言葉を彼女は書きつづりました。それは、自分自身を癒す作業でもあったでしょうし、同じような辛い体験をした人々を慰めることでもあったでしょう。
 私たちは、今日の次には明日が来ると思っています。しかし、そうでない人もあります。「私たちは、忘れないようにしたい。若い人にも、年老いた人にも、明日は誰にも約束されていないのだということを。愛する人を抱きしめられるのは、今日が最後になるかもしれないことを」と詩は続いています。
 この詩に共感した人が、9・11テロで亡くなった人々を偲び平和を訴えるために配信したところ、あっという間に世界に広がっていったのです。
 ノーマさんは、自分の詩が、いわば無断掲載され作者も違う形で伝えられていることを知っていましたが、自分の言葉が、平和に利用されていることを誇りに思っていたようです。
 アッシジの聖フランシスコは「私を平和のためにお使い下さい」と言いましたが、そんな心境だったのかも知れません。
 仏教では諸行無常といいますが、それは今日を精一杯生きる生き方につながります。たとえ、明日、自分がいないとしても、後悔しないように生きるためにはどうすべきかを考えていきたいと思います。

鬼手仏心

「今年の漢字は」  天台宗出版室長 谷 晃昭

 
 毎年、京都の清水寺でその年の世相を象徴する漢字が発表される。平成19年は「偽」だった。なるほどと思ったひとも多いだろう。
 「消えた年金」は流行語大賞を受け、社会保険庁のずさんさは「超」だったと、厚生労働大臣に言わせた。
 また、自衛隊装備品の購入金額については通常価格の三倍ほども「増」であったという。
 国会の会期中、所信表明演説の直後に首相の職を捨てた内閣や、党首を辞任したと言った翌週にはもう一度やると言った党首などは「軽」かも知れない。
 一方、介護サービス費用の利用者一割負担は、僅かな年金で生活するお年寄りには「重」であり、「苦」である。 先日あるテレビ番組で、この一割の負担が大変で、しかたなく、自ら介護サービスを制限せざるを得ない、独居高齢者の状況が報道されていた。この行政の弱者に対する施策の「貧」を、一体どう理解したらいいのだろう。
 平和で文化的な国民生活の保障を謳(うた)った日本国憲法の精神は何処へいってしまったのかと思う。これでは国民が国に「疑」というのもやむを得ない。
 ただ、番組の中で僅かに救いを感じたのは、独居生活のご老人を支える隣近所の人の温かさであった。季節の野菜を届ける。また、折りにつけて声を掛ける。用事で出かけるときには車を出す。こんなことを当たり前のように、サラリとやってのける。まさに「一隅を照らす」心を見た。
 平成20年はどんな漢字が選ばれるのだろうか。できれば「慈」とか「温」などにしたいものだ。

仏教の散歩道

忘己利他(もうこりた)の布施 ~仏教の散歩道お正月スペシャル~

=貪らないのが布施=

曹洞宗の開祖である道元禅師(1200ー53)が、その著『正法眼蔵』の中で次のように言っておられます。
 《その布施といふは不貪(ふとん)なり。不貪(ふとん)といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり》(「菩提薩?四摂法」)
 〔ここで布施というのは不貪である。不貪とは、むさぼらないこと。むさぼらないというのは、世の中でいうへつらわないことだ〕
 布施は、仏教者にとって大事な実践徳目です。そして布施というのは、貧しい人々に財物を施すことです。そう思っていたわたしは、道元禅師のこの言葉にびっくりしました。「布施というのは、むさぼらないことなんだよ」と言われても、最初はどういう意味か分かりませんでした。
 だが、あるとき(もう20年以上も昔ですが)、当時は大学院生であった息子と一緒に家を出て、電車に乗りました。始発駅なので、電車には空席がいっぱいあります。わたしはシートに座ったのですが、息子は座らず立ったままでいます。何故座らないのかと訊くと、彼は、
 「お父さん、この電車は途中で満員になるんだ。だから座らないことにしているんだ」
 と説明しました。わたしは、「それなら、満員になったときに譲ればいいんじゃないか」と言ったのですが、息子は「面倒だから」と答えたのです。 
 〈ちょっと変わった子だなあ………〉
 と、わが息子ながら、そんな感想を持ちました。
 けれども、ずっとあとになって、この息子のやり方こそ、仏教が教える本物の布施なんだということにわたしは気づいたのです。
 満員の電車の中で、お年寄りや身障者に席を譲るのも布施です。布施は、金銭や品物を施すことだけではありません。 
 だが、電車が満員になってから、布施をしよう(席を譲ろう)としても、うまくいかないことがあります。目の前に立っている人が自分よりも若い人であれば、譲れません。30歳の人が20歳の人に「どうぞ」と席を譲れば、20歳の人が腹を立てるかもしれませんね。
 では、少し遠くに離れた場所にいるお年寄りに譲ろうとしても、満員の中で動くのは骨が折れますから、そのお年寄りが「いいえ、いいです」と座るのを拒否する可能性があります。また、かりにうまくお年寄りに座っていただけたとしても、目の前に譲った人間が立っていれば、どうしても心理的圧迫感が加わります。〈すみませんね………〉と言った気持ちになります。そのような気持ちを持つのがいやで、断固として布施を受けない人もいるのです。
 そう考えると、わたしの息子のように、はじめから座らないでいるのが最高の布施になりそうです。人間には、座りたい、楽をしたいという気持ちがあります。それは欲望です。その欲望が度を過ぎると貪りになります。だから、道元禅師は、貪らないことが布施であると言われたのですね。

=損をする覚悟をするのが布施=

 いま、日本人は贅沢三昧(ぜいたくざんまい)な生活をしています。日本にかぎらず先進国はみな、地球の資源を浪費し、石油エネルギーをじゃかすか使い、経済活動を活発にするために地球環境を破壊し続けています。
 そしてその裏には、貧困に喘(あえ)いでいる国々が多数あるのです。
 そうすると、そのような貧しい国々に対して援助をせねばならない、といったスローガンが唱えられます。ボランティア活動の必要性が声高に叫ばれます。
 たしかに、発展途上国に対する援助も、ボランティア活動も大事です。けれども、貧困に喘いでいる国、土地は、一つや二つではないのです。AとBの国に援助をして、CとDとEの国を無視すると、結果的にはCとDとEの国を攻撃したことになるでしょう。あなたが、少し離れた所にいるお年寄りに席を譲ったとき、あなたの目の前に立っていた青年が心臓病で苦しんでいて、その青年のほうが座席を必要としていたかもしれないのです。そうすると、結果的にはあなたの善意が、目の前の青年を苦しめることになってしまったわけです。
そこに、布施・援助活動・ボランティア活動のむずかしさがあります。
 わたしたちは、道元禅師に教わるべきです。「布施とはむさぼらざることなり」です。日常生活の中で、ちょっと贅沢をやめるといいのです。たばこを吸っている人がたばこをやめる。それが布施です。ゴルフの回数をちょっと少なくする。海外旅行を一回だけやめる。会社の利益をほんの少しでも減らす。それが布施になります。 
 そんなことをすれば、損失になる。そう言われるかもしれません。だが、その損失こそが布施なんです。大いなる利益をあげて(つまりむさぼって)、その利益の一部をどこかに寄付するのが布施ではなく、むしろ利益を減らすことが真の布施なんです。
 とすると、わたしたちが「損をする覚悟」を持つことが布施ですね。
 そして、伝教大師最澄(767ー822)は、それを、
 ―忘己利他(もうこりた)― 
 と言っておられます。自分の利益を忘れて損をすることが、他人のための布施になるのです。

カット・酒谷 加奈

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