天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第83号

ハイチ大地震被災者に救援の手を
-天台宗・一隅を照らす運動総本部も緊急に支援-

 カリブ海にあるハイチ共和国で一月十二日夕刻(日本時間十三日午前)に発生した大地震は、首都ポルトープランス周辺地域に未曾有の被害を引き起こしており、多数の死傷者を出した。今なお被災の全体が掴めないほどの惨状を呈しており、救援活動もスムーズに行えない状況下にある。天台宗としても、座視しえないこの状況に憂慮し、緊急に支援を行った。

 ハイチは、南北アメリカの最貧国で人口約九百六十万人。同国は長年政情不安が続いており、社会基盤も脆弱な国。震源地に近い首都ポルトープランスには、約二百万人が暮らしている。そこへ阪神大震災と酷似した震源の浅い内陸直下地震が襲ったため、建物の多くが倒壊、死者は十五万人から、二十万人に上ると推定されている。ハイチ国内は、救援活動に必須の空港や道路が損傷を受け、加えて治安も悪化、水道・電気などのライフラインも壊滅的な打撃を蒙っており、援助の食料品や医薬品の配給も滞りがちという。被災者の総計では、人口の約三割の三百万人に上ると見られている。
 被災直後から世界各国の救援チームが入り、様々な救援活動を展開しているが、思うように活動できない状況である。今後、世界各国の救援活動もさらに活発化すると思われるが、同国の国情からみて、復興までには相当な期間が必要と予想される。
 被災地は、日本からは遠く離れた国であり、ボランティア活動など人的な支援は難しいため、公的な救援活動への募金寄託という形での支援が考えられる。そうした状況に鑑み、天台宗としても救援金を寄せてもらえるよう、広く宗内に呼びかけ、支援活動を行うこととした。
 阿純孝天台宗宗務総長は「地震国日本といわれる我が国も、阪神大震災など、多くの被災を経験しています。天台宗としても、日本が災害復興のためのノウハウを活かした救援を続けられるよう、側面から支援する意味で、少しでもお役に立ちたいと思っています」と語り、宗徒の幅広い支援を期待している。
 一隅を照らす運動総本部では、日本赤十字社に緊急救援金百万円を寄託したが、別掲のようにハイチ大地震災害に対する緊急支援として、義援金を幅広く宗内外に向け募る。福惠善高同運動総本部長は「一隅を照らす運動の精神にあるように、自分一人の力で生きているのではなく、自分を取り巻く地球上の全ての存在によって生かされているという意味からも、皆さんの支援を御願いします」と要望している。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

 命を助けることに光りを当てるのではなく、心を救う「非効率」という価値観を打ち立てたらどうでしょう。

国際医療奉仕団ジャパンハート代表 吉岡秀人

 吉岡秀人さんは、軍事政権下のミャンマーに一人で渡り、私財を投じて「国際医療奉仕団ジャパンハート」を設立した医師です。
 活動を続ける中で吉岡医師は、医者の価値観である「治療で何人助けられるか」という効率論に疑問を持ちます。その効率論で考えると、助かる見込みのない末期ガンや終末期のエイズ患者などは取り残されてしまうからです。
 「死んで逝く人たちに最後まで付き添い、看取ってあげる。それはまったく非効率な行為ですが、死に逝く人たちが『外国から来た人たちが自分を心配してくれている』と感じて、その心が救われるなら」と吉岡医師はいっています。
 最初から命を救うことを放棄するのではなく、もう手の及ばない所に到った人々に最後まで寄り添うという姿勢は、決して非効率ではないと思います。
 そこには「仏のまなざし」というものを感じます。  仏教で布施という言葉で表している行為が、まさにそのことです。布施といえば金品を差し出すことだと思われがちですが、優しいまなざしや、思いやりのある言葉も布施なのです。
吉岡医師は、昨年テレビに出演したときに「あなたが目指す医療とは?」という問いに「たとえ亡くなっても、心が救われる医療」と答えていた。
 「助かっても助からなくても、その人の事を大切に扱う。大切に扱われるだけで、人はきっと、生まれてきて良かったと思えるのです」。
 作家の柳田邦男さんが、鳥取県でホスピスケアを行っている野の花診療所の徳永進院長について話しています。胃ガンが腹膜まで転移しているお婆さんが、徳永院長に、突然「先生、いつまででしょう」と聞く。徳永先生はハッとしながらも「桜が見られるといいですねぇ」と応える。お婆さんは「そうですか、桜が見られますか。ありがとうございます」という。これも、見事な布施の言葉だと思います。

鬼手仏心

妻の字が毒に見えたら  天台宗出版室長 杜多 道雄

 
 川柳は「風刺・滑稽」だといわれます。
 「妻の字が毒にみえたら倦怠期」という句がありますが、思わずニヤリとする人もあるでしょう。
 川柳の特徴は、人をからかう「毒のある笑い」ではなく、自分自身、または自分の周りの出来事を笑い飛ばそうという「上質のユーモア」にあります。川柳の中に流れる「恰好の悪い自分だけど、ま、いいか。明日も元気で生きてゆこう」という前向きな姿勢が、私は好きです。
 悲しみや苦しみに直面しても、川柳の一句一句に共感したり同じ思いを共有したりすることで癒されることも多いでしょう。「大日本天気晴朗無一文」(川上三太郎)というのは少々問題があるとはいえ、「細かいことなど、どうでもいいじゃないか」という気にさせられます。
 夏目漱石は「草枕」で「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」と嘆きました。私達はできるだけ角の立つ話は避けようとする性質があります。日本人はイエス、ノーをはっきり言わないと批判されますが、そこにはできるだけ摩擦を避けようとする民族の智恵があるのです。だから「智に働けば角が立つ」のです。けれども、言いにくいことでも、笑いというオブラートにくるんでいえば案外すんなりと運ぶものです。借金をしてなかなか返済できないとしても「このご恩は忘れませんと寄りつかず」(大田佳凡)なんてどうでしょうか。
 このたび、天台宗の総務部長、出版室長を拝命いたすことになりました。「人生は多く笑った方が勝ち」。とにかく明るく楽しいコラムになりますよう、各部長と共に頑張りますのでよろしく御願い致します。

仏教の散歩道

仏教が教える智慧

 病気になれば、たいていの人は病気を治すことを考えます。貧乏であれば、その貧乏を克服して金持ちになるように努力します。つまり人々は、問題を解決しようとするわけです。
 病気にもいろいろありますが、かりにがんだとしましょう。現在のところ、がんは不治の病であって、手術によって患部を剔出(てきしゅつ)するか、抗がん剤を投与するか、放射線照射するか、それしか対症療法はありません。いずれにしてもがんを治そうとすれば、一日のほとんどの時間がそれにとられてしまいます。
 わが子が心の病気である不登校・引きこもりになれば、親はなんとかして子どもを学校に行かせようとします。問題解決をはかろうとするわけですが、そうすることによって子どもを傷つけ、ときには子どもが自殺することもあります。自殺するくらいであれば、不登校なんか問題じゃないと気がつくのですが、それではもう遅いのです。
 貧乏から脱却して金持ちになるためには、たぶん過労死を覚悟してまで働かねばならないでしょう。
 ここでちょっと考えてみてほしいのは、どうして問題を解決しないといけないのか、といった疑問です。わたしたちは病気のまま、貧乏なままで、幸せに生きることができるのではありませんか。かりに貧乏を克服して大金持ちになったとしても、それで幸福になれる保証はありません。世の中には、幸福な金持ちもいれば、不幸な金持ちもいます。また、幸福な貧乏人もいれば不幸な貧乏人もいます。貧乏であれば、幸福な貧乏人になることを考えるべきです。病気になれば、幸福な病人になることを考えたほうがよいでしょう。
 実は、仏教というのは、「智慧の宗教」です。わたしたちに人生の智慧を教えてくれるのが仏教です。
 ですが、仏教が教えてくれる「智慧」は、問題を解決するための知恵ではありません。わたしは、智慧と知恵とを区別しています。問題を解決するための知恵は、いわゆる世間の知恵です。世間の知恵は、どうすれば金持ちになることができるか、どうすれば病気を治すことができるか、どうすれば立身出世ができるかを教えてくれています。もっとも、それらの知恵を学んで、本当に問題が解決するかどうかは分かりません。が、ともあれ、どうすればいいかといった「ハウ・ツー」を教えてくれます。
 けれども、仏教の智慧は、そのようなものではありません。仏教の智慧は、われわれが病気になっても、病気のまま毎日を幸せに生きることを教えてくれるものです。引きこもりになれば、引きこもりのまましっかりと人生を生きることを教えてくれます。貧乏であれば、貧乏のまま家族がそろって笑顔で生きるようにと教えてくれています。
 要するに、仏教は、いかなる状況にあっても、わたしたちが人間らしく生きることを教えてくれているのです。わたしはそう考えています。

カット・酒谷 加奈

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