現在のページ:トップページ > 天台宗について - 天台の主張 記事(1)
近代医学の進歩は目覚ましく、臓器の欠陥により生をまっとうできない患者に対して、他人の臓器の移植によって延命を図り得る技術が確立されつつある。
しかしながら、角膜、腎臓などは死体からの移植で成り立ち得るが、心臓、肝臓などとなると、より新鮮な臓器でなければその成功は見込めないのが現実である。
一方に、死に瀕して蘇生限界点を越えた患者があり、他方に、臓器の移植によって延命可能な患者があるならば、臓器移植は強力な治療手段となり得るだろう。
そこで近代医学は新たに脳死の概念を提示してきた。脳死と臓器移植の問題は、本来それぞれが独立したものだと言いながら、脳死者を死者の範疇に入れ、臓器移植を推し進める立場がある。
一般に、脳死者は限りなく死者に近いことは認められるものの、死者であるとは認めがたい。何故ならば、まだ生きている部分が明確に存在し、眠るがごとき状態で呼吸を続けている脳死状態を人の死であると決める社会的合意は、未成立だと思われるからだ。
さらに、脳を人体器官の中で特別視する考え方は、脳の質を問題とする考え方に通じ、それは劣った脳や病んだ脳を蔑視するという、弱者の権利侵害に走りかねない。また、脳死体を利用する多重実験の実例もあり、脳死体を医療資源に利用することは、人間の尊厳を冒すという考え方もある。
仏教の立場からは、心身一如を基本とするので、安易に脳死を人の死とすることに賛成できない。
すなわち天台教学では森羅万象すべてに、真理すなわち仏性が存在し、全体が調和しながら流転しているとする。
従って、肉体と生命とは時間的にも空間的にも分けられないものであり、それを分けて認識することは無明(煩悩)のためであるからだ。
脳死者からの臓器移植は、人工臓器の開発がいまだ不十分である現状においては、有効な治療手段であることは認めざるを得ない。
しかし、現実にそれを実施するためには、数々の問題点が指摘されている。
すなわち拒絶反応をどう押さえるか、感染症を防ぐ手立てなど術後の管理をどう乗り越えるか、又、膨大な手術費用による医療保険の圧迫をどうするか、適合するドナーの不足から施術順の公平確保をどうするか、又、臓器売買の禁止をどう徹底させるか、脳死者が死者でない以上、臓器摘出は傷害や殺人にあたるが、それから免責される法的措置をどうするかなどである。
これらの問題は医療、法律はじめ社会の諸分野において十分検討されることが必要である。しかしながら現実に脳死体からの移植手術を待ち望む重症患者が存在し、それしか治療の可能性のない状態で、一方それを実施する技術も施設もある中で、頑なにそれを拒否するだけの傍観的態度は許されないであろう。
しかし、移植のために他人の新鮮な臓器を求めることは、確実に一人の人間の死を必然とすることであり、たとえ蘇生不可能な生命であっても、他人の生命を縮めて自分の延命を図ることに外ならない。これはまさに人間存在の根幹にかかわる問題であり、正しく宗教の課題そのものであり、技術論で合理化をはかるべきものではない。
臓器移植には、それを提供する側(ドナー)と、受ける側(レシピエント)がある。仏教徒としてそれぞれどのような姿勢をとるべきであろうか。
提供者(ドナー)にとって、臓器の提供は布施の行為と考えられる。法華経の中に「不惜身命」が説かれている。これは、永遠の生命を得ようとするためには、現世の身体、寿命さえ捧げることを惜しんではならないという教えである。
永遠の生命とか真実の生命を得るというのは、「仏性の開顕」すなわち真実が現れることをいう。まさしく人間の尊厳、あらゆるものの生命の尊厳を知るという意味である。
それは、人間には本来的に、出生し現在生きていることの尊さ、他人や物の存在の意義を認める心の尊さ、自己を次第に高めることのできる尊さを具えていることを自覚することである。
このような自覚は、やはり法華経に説かれる如来の成仏よりこのかたの、人々を無上道に導こうとする誓願や、観世音菩薩の修行(五観)を通じて得られるのである。すなわち、宇宙の森羅万象は刻々と変化して常住でないことを知って執着をなくすことにより(真観)、現実の世の中の姿をそのまま美しく認識できると(清浄観)、森羅万象は調和しながら変化しているなかで、自分の存在がその一部であると同時に、全体であることがわかる(広大智慧観)。そのとき他人の苦しみが自分の苦しみとして感じられ(悲観)、自分の喜びを他人と分かち合う(慈観)ことができるのである。
まさに「仏性の開顕」であり、正しい布施が行われる所以である。
但し、不惜身命の捨身の行とは、私達の真実の生命を得るための修行である。真実の生命とは、過去、現在、未来の三世にわたる命の自覚をいう。だが三世を強調するあまり、現世における生命を妄りに軽んじてはならないことを世間相常住の言葉で教えていることを忘れてはならない。
だが、他人の非常時に際して、又は親が子を、あるいは子が親を護るとき、現実に肉体を捨てる行為が見られることがあるが、特に無縁の慈悲の極致である「己を忘れて他を利する」善心の発露は否定されるべきではない。それゆえ蘇生限界点を越えた脳死状態のとき、いわゆる人生の末期のひとときが臓器提供という布施によって慈悲を施すことになるので、仏教徒として当然認められてよいことである。
次に受ける側(レシピエント)にとって臓器の提供を受けることは、臓器の欠陥によって限られている命を、移植によって延命させることである。すなわち自分の受けるべき業を変えることを意味する。
天台教学では決定業(結果を受けるべき業)も敬虔な祈りによって転じることが有り得るとしており、臓器を受けることは容認し得るところである。
しかし、この施しは正しい布施、すなわち法施でなければならない。提供者の意志が慈悲心(善心)にもとづくものであり、提供される臓器が売買によるものではなく、さらに受ける側は、仏からの法施として受け取るべきで、生命を延ばし得た喜びを社会のために役立てようという誓願をすべきであろう。
いやしくも、ドナーとレシピエントの関係が絶対にギブアンドテイクの関係にあってはならない。